私が今働いている会社には50歳の誕生月末まで在籍していれば、それ以降は本当の定年である60歳までのいつ中途退社しても定年退職として扱ってくれるという特別な社内制度があります。
私自身は肩書きとしての「定年退職」には特に興味はありません。しかし数年前在日韓国人2世の母が生前に初めてこう言ったのです。
「お母さん、若い頃からの夢はね、お兄ちゃんとお前が普通の会社に就職して、社会で生活してくれることだよ。」
私はそれを聞いてガックリした。
私は小学校の5、6年に母が在日だと知って、考えてみると思い当たることが色々あった。それで子供なりに壮大な目標を立てて、塾も行ったことがないのに壮大な計画を立てた。
元々父の影響で世の中の役に立つ発明をして特許取りたいと思っていたが、それが取れたら母と父に贈ろうと。
大学のとき個人的に自動車関連の特許申請を2回したが、審査請求や維持費が莫大で個人ではとても払いきれないことに気がついた。それで特許申請して公開される前に有名メーカーに資金提供を求めて売り込んだが、ホンダとスズキから理由を添えたご丁寧なお断りのお返事をいただいただけだった。
結局特許を取りたければ、特許制度のしっかりした大手有名メーカーに就職するしかないことにようやく気がついた。
「大手有名メーカーに就職したい。」
それだけを周囲に口に出すと「大手有名企業の肩書が欲しいのか」と呆れられた。
狙いはそこじゃない。
その後、私は今の会社に入って特許を10件近く取った。賞状や盾は全て両親に贈り、賞金は常に二分して父と母それぞれにいろいろなものを贈った。還甲(ファンガプ、還暦)だった母にはティファニーのブライダルサロンで買ったゴマ粒ほどのダイアモンドのついた金の指輪を贈った。祖父と同郷(慶尚北道現・金泉市)だった故陳昌鉉さんが「海峡を渡るバイオリン」の原作本で韓国にはそういう風習があると語っていたから。
また両親は日韓の国交が回復していない時代に周囲の反対が強く、結婚式が出来なかったので、結婚指輪のつもりでもあった。息子が親の結婚指輪を買うって変な話ですが。父は指輪などしない人だから指輪の代わりにダンヒルのベルトを贈った。ベルトも輪っかだから指輪みたいなものだ。ダンヒルのはHERMESやヴィトンと違ってベルトの長さが調整できた。
最期に大切な特許が2件取れて、ある年末に帰省して病床の母に贈った。
本来の内容はSNS上の被差別者への風評被害やヘイトスピーチを社会心理学の理論(ハイダーのバランス理論、ケリーのANOVA、スノーボールサンプリングなど)に基づいて分析する手法だった。一度却下されて再挑戦するのに2年かかった。さらにそれらの特許が成立するまでに数年かかった。
その年末に特許の賞金でタラバガニの一番高くて大きな足と小さなマヨネーズ、三杯酢、土佐酢、牛のスネ肉を買ってきた。タラバガニを自然解凍し殻を剥いて身を取り出し、牛すじでカレーを作って、元旦に母の病床で両親と一緒にたらふく食べた。これが母との最後の食事になった。子供の頃からこの目的を果たすまで30数年かかった。一度しかない人生だ。無我夢中だったがどれだけ充実していたことだろう。
母はその後3ヶ月で亡くなった。晩年の母は心臓の内壁に穴が開き、すでに腎臓が機能しなくなっていた。透析を拒み続け世を去った。
しかしその母がその入院前に兄と私が普通の会社に就職してくれるのが夢だったと言ったので、私は気が遠くなった。就職先は地元の運送会社でも何でもよかったらしい。
考えてみれば、母の親戚の仕事は、養豚、屑鉄回収業、土方、交通整理、個人タクシー、クリーニング屋のバイト、保険の外交員、闇の仕事など個人事業や契約社員、パートばかりで日本の会社の正社員が1人もいない。だから昭和40年代に兄と私を産んだ母からすれば、われわれ日本国民の息子たちが普通に会社員になってくれればそれだけでよかったらしい。
これはうちの一族に限らず昭和の在日全般に言えることで、あの孫正義さんも少年時代に祖父母の養豚のための残飯回収のリアカーに乗せられていたのは有名な話だ。残飯がぬるぬるして気持ち悪かったと。
これも母の晩年に初めて聞いたのだが、そのために母は日本人男性との結婚にこだわった。私たち兄弟2人だけが父系血統主義の時代に母の親族の中で唯一日本国籍の日本国民として生まれた。それは偶然ではなく、母による必然だった。だから私たち2人だけが在日の人たちが苦しんだ就職差別に遭わなかった。
私たち兄弟には「日本国籍」というこの国における最強の切り札がある。だったら行けるところまで行くしかないだろう。
小さい頃一緒に遊んだ在日の従兄弟たちには悪いが、私は就職の際にこの切り札を切らせてもらった。
その後一番重要な特許申請が2件決まりようやく目的を果たせる目処がついたところで、母の希望があまりにも低すぎることを知って拍子抜けしてしまった。
ちょうどその頃、初めて自社では例の50歳で定年退職の権利が得られることを知った。若い頃に知ったら気が遠くなったかもしれないが、そのとき私はすでに40数歳だった。私自身は定年退職に興味はなかったが、あと数年なら行くしかないだろう。マラソンを何十キロも走ってきて、理由もなくゴール手前で棄権する奴があるか。
6月末までいろいろ計画を立てた。しかし気負いすぎた。普通にしてればいいものをもともと不眠症な上に私は睡眠薬が効かないので、毎晩寝酒で深酒をする生活に逆戻りしていた。6月末まであと少しだったがその数日前に倒れてしまい、昨年入院した病院に逆戻りした。幸い6月末の最終週の3日はあらかじめ有給を取っていたので目的自体は実質遂げられており定年の権利獲得は出来ていたが、目前の6月30日から入院することになったことが悔しかった。
6月30日。私は病院の隔離病棟にいた。今病院ではコロナではないかを確認するために潜伏期間も含めて数日隔離病棟にいなければならない。PCRを数日受けた。しばらく前から2年ぶりに持病の咳が出て2週間止まらなかったのだが、これが特に疑われてなかなか一般病棟に移れなかった。
入院中、即死するほど限りなくゼロに近かった電解質が数日の点滴で回復し、肝臓の数値もかなり回復した。ただ総ビリルビンの値だけが上昇し続けており、また例の掻きむしって血だらけになる黄疸が出てきた。あとはこれを乗り切るだけだ。
なおここを退院したら、産業医の先生の推薦でアルコール性の精神科があるメンタルクリニックに通院することになっている。いろんな先生と相談した結果、これがアルコール性肝機能障害の完治のための最善の第一歩らしい。
入院前にその精神科の院長との面談も済ませた。
通院すれば、抗うつ剤ももらえるらしい。
ご推薦をいただいた産業医の先生のお話では、私は「反応性抑うつ」ではないかと。それを精神科の院長先生に伝えたところ院長先生も深く同意された。
なお反応性抑うつは環境上の適応障害が原因で引き起こされるらしい。
私は数十年間日本人と本気で喋ったことがない。返事が返ってこないからだ。考えてみれば、適応障害の原因はいつもこれだった。中学生の頃から不眠症になったのも夜中じゅうひとりで考えこんで寝られなくなっていたからだ。やがてそれが寝酒になり、深酒になった。
7月になり、定年退職の権利を獲得したことを確認した上で、お世話になっている産業医の先生と新しく上司になられた方に初めて自分や母の生い立ちについて話をした。適応障害の理由について説明をしたかった。電話口で何度も言葉に詰まり俯いて深呼吸を繰り返しながらこの数十年の説明をした。先生方は辛抱強く聞いてくださった。私はいつのまにか大声で泣いていた。
大丈夫、人生はやり直せる。
ちなみに昭和の日本における在日就職差別で最も有名なのは1970年に日立就職差別事件だろう。
この時の原告である在日朝鮮人の朴鐘碩氏はもともとある外資系企業に就職したかったらしいが、高校の先生に無理だと言われて日立ソフトウェア(日立製作所戸塚工場)を選んだと聞いたことがある。
> 入社を勝ち取った男性は定年まで勤め上げ、いまは日本人の妻と穏やかに暮らしている。
不思議なことだが、今兄は日立製作所で自動車部品の設計開発をしていて、私はその外資系企業でソフトウェアの設計開発などをしている。
そして私は兄より先の先月末で定年退職が確定した。
母方の親族で日本の企業に就職して定年までたどり着いたのは私が初めてではないかしら。戦前に一族が朝鮮から日本に移り住んでここまで80年以上かかった。私自身今年で50歳になったのだからその半分以上の歳月を親族と共に生きてきたことになる。
唯々残念なのは3年前に母親が死んでしまい、そのことを直接伝えられなかったことだ。
お母さん、あなたの夢は果たしたよ。