今日まで生きてきて、いろいろな人を観察していて思うのだけれど、結局、人間は実質的に次の2種類に限られるのではないだろうか。

1. 抽象的なものを抽象的にしか見ることしか出来ない人

2. 具体的なことを具体的にしか見ることが出来ない人

言い換えるならば次のような人は滅多にいないのではないか。

3. 具体的なことを抽象化して見ることが出来る人

私自身長年SNSなどを見ているけれども、3. のような人にお目にかかったことがない。その珍しさは人類全体の中で棄却域に入るほどいないのではないかとすら思えてくるほどである。
もしいるとすれば、どこの誰が過去に抽象化したのかも分からないことを暗記して自分が考えたかのように喋っているのが関の山だ。
そういう人は何故そういう着想を自分が得ることが出来たのかについてお尋ねしても、その場で自分の言葉でスラスラと答えることが出来ない。

「見識の代わりに知識を持ち出す人がいる」(ゲーテ)

私はたまたま理系の数学科出身で、物事を抽象化して捉える傾向があるのだけれども、その私の母親がたまたま在日韓国人だったことで、理屈では割り切れないようなさまざまな泥臭い理不尽な社会問題を突きつけられて、ようやくこの事実に気がついた。
社会問題は少なくとも当事者にとっては簡単に抽象化して取り扱えるものではない。しかし、そうしなければ、いつまでたっても論争が堂々巡りをしていつまで経っても拉致があかないのも事実なのだ。
実際この議題についてそもそも私と話し合える相手がいないこと自体がそのことを示している。

世間的で身も蓋もないことをあえて言えば、例えば、岩波文庫(青)に収録されているようなことを分かりやすいその当時の口語ですらすらと語れる人たち、例えば、ブッダ、イエス、ソクラテス、老子、荘子、ショーペンハウエル、ルソー、ニーチェ、ヒルティ、キルケゴール、パスカル、ウィトゲンシュタイン、ポアンカレような人たち、あるいは岩波文庫(赤)のゲーテ、エマソン、ヘルダーリン、プーシキン、オマル・ハイヤーム、サアディー、ノヴァーリス、ドストエフスキー、あるいは太宰治や稲垣足穂のような作家たち、あるいは『イーシャー・ウパニシャッド』、『信心銘』(僧璨)、砂漠の師父たち、グルジェフ、カビール、ラジニーシのような宗教家、瞑想家、思想家たち、金笠、金子光晴、山之口貘、ラングストン・ヒューズ、ウディ・ガスリーのような放浪詩人たち、ゴッホ、勝海舟のような人たちは、この世に滅多に出現しないのだ。
彼らは長い人類史において、流星のように現れては一瞬の瞬きで夜空に消えていく。人類史全体から見ればほんの一瞬の出来事なのだ。
またその裏で昼間の青空の下で人知れず消えていった流星もそれ以上にあったに違いない。
であるからこそ彼らは当時の無理解な庶民の人たちに相当苦しめられたに違いないが、その彼らの著書は永遠の命を得て、何千年、何百年経っても読み継がれ、決して滅びることがないのだ。

以下に続く

【哲学】具体的な社会問題を抽象化して捉える能力についての考察 その1

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