一人で日本人社会に嫁いできた在日の母は自分が在日であることを周囲にひたすら隠したがっていました。
そのことをたまたま知ってしまった息子の私も以来自分が日韓ハーフであることを公言しにくいところがありました。
少なくともそのことが母親の耳に入ることを私は極端に恐れていました。
何故ならば、私が日韓ハーフで父親が日本人なのですから、結局のところ「私が日韓ハーフであることを言いふらして歩く」ことは「私の母が在日であることを勝手に言いふらして歩く」のと同じことだからです。
私よりも母親のことを考えると、特に母と共通の知人である日本人に対して、私が日韓ハーフであることを名乗ることは、私にとってとても心苦しいことでした。いつそのことがその知人を通じて母親の耳に入り、母親が卒倒するか分からなかったからです。

私自身は自分が日韓ハーフであることも、母親が在日のであることにもなんの劣等感もないのですが、結局、私は親元を離れるまで、近所で自分が日韓ハーフであることも、母が在日であることも、名乗るに名乗れなかった。

結局、私は高校までの同級生に対して誰にもこのことを打ち明けることができなかった。
いつもひとりぼっちで寂しい思いをしていた。
好きになった同級生の女の子にも打ち明けることが出来なかった。

その後、大学に行くために上京をして、私はこのことをある程度周囲に話しやすくなりました。

ところが東京の大学の日本人の学友に改めて打ち明けるように話してみると、帰ってくる返事は毎回同じようなものでした。
こちらが何を話しかけても、

「考えたことがないから分からない。」

「へーそうなんだ。ところでさ」(と話題を変えられる)

「そんなの関係ないよ。○○君が○○君であることにはなんの代わりもないよ。」

「大陸の人は情に厚いっていうよね。」(何を言っているのかさっぱり分からない褒め方をされる。)

すべてその場の思いつきの生返事ばかりで、私は卒業するまでこんな訳の分からない返事を学友から聞かされ続けた。当時は後期バブルの真っ最中で、誰もそんな辛気臭い民族問題や差別問題には何の興味ないのでした。要するにモードスーツに肩パッドを入れて夜な夜な六本木のディスコに行っておればよいのでした。

だんだん私は周囲の学友と口を聞かなくなってしまった。私は自覚症状がないまま無表情になり、周囲の人たちは私の心が読めなくて、接しづらそうだった。

私は授業にも出なくなり、ひとりで文学や音楽にのめり込み、新宿、池袋、渋谷の本屋とCDレコード店、中古レコード店、輸入レコード店をひとり何軒も回る生活をするようになってしまった。
要するに彼ら日本人の学友は、個人的には、みんないい奴らなんだけど、在日の問題などについてはまったく考えたことがないらしく、そのことについて何の興味もなく、マイノリティ問題や差別問題について、何の見識も持ってないのでした。彼ら自身が在日社会とは何の関係もないのだから仕方がないですよね。
ついでに言えば、それは彼らが社会人になっても何も変わらないのです。
それは日本人の善悪の問題ではなく、この国で圧倒的過ぎるマジョリティの日本人の典型的な特徴なのかもしれません。

話を母のことに戻します。
その後、私は大学を卒業して、外資系の小さなベンチャー企業に就職しました。これによって私は完全に親元から自立しました。
その会社は数年で解散となり、清算となってしまったのですが、災い転じて福となり、私たちはそれ以前に我が社を買収していた世界的な大手IT企業にそのまま全社員が転籍することになりました。
要するに、この外資系大手企業への転籍は私の実力でもなんでもなく、ただの棚ぼただったですが、実は買収のニュースは私の就職活動中にニュースで報道されており、私もちゃっかりそのあたりも計算して、最初の会社に就職していたのでした。
この会社が私にとって魅力的だったのは、私は小さい頃から、将来エンジニアになり、世の中の役に立つ発明をし、特許を取得するという夢を持っていたのですが、この大手企業にはそのための社内制度や日米の有能な弁理士が全て揃っていたことでした。

しかし、その私が今の大手外資系IT会社に転籍してからというもの、母親は人が変わったようになってしまいました。

私の社歴に目がくらんだのか、母親は栄光浴が行きすぎて、最後には肩書依存症、自慢中毒みたいになってしまったのでした。
これまでの被差別体験による劣等感がリバウンドで跳ね返ってきて、本人も周囲を見返したい気持ちをどうにも抑え切れなかったのでしょう。
母親はその社歴に夢中になるあまりに周囲に強引に自慢話をしては、私の社歴を言いふらして歩き回るようになりました。
またそのために母親はとにかくその自慢になる新作の話のネタを際限なく欲しがるようになり、四六時中私や会社のことを嗅ぎ回るようになってしまいました。これでは「親の七光り」ならぬ、「息子の七光り」であって、とても本人のためになるものとは思えませんでした。
これでは学生時代に逆戻りです。

そして悪い予感は的中するもので、以前母が働いていた生命保険関係の繋がりで母が知り合った若いお母さんの息子さんが、なんと私と同じ会社に就職したというのです。さらに嫌な予感がしながらさりげなく聞いてみたら、その息子さんは私と同じ部門の隣の部署に配属されてきた新人の子でした。
これではまるで筒抜けで、親元にいた学生時代に完全に逆戻りしてしまいました。
それで私はますます会社で自分が日韓ハーフであることを名乗れなくなってしまった。すべて母親の耳に入ってしまうのは目に見えていました。
みんな差別が悪いのだ。

また、その自慢話というのも、自己満足の無邪気なものであれば、まだマシなのですが、母親の場合、ほとんどの場合それは周囲への見返しであり、もっと言えば復讐に近いものでした。
特に自分と日本人の父親の結婚に強く反対してくれた母親の遠戚のおばさんたちに対しては骨肉の恨みでいっぱいで、それは壮絶なものでした。
あるとき、私が今の赤坂のマンションを買うときに相談に乗ってくれた埼玉に住む若いいとこのお姉さんがいたのですが、心臓発作でなくなってしまいました。享年43歳の若さでした。
母方の祖父の血を引いてる親戚には、こういう人が多いのです。彼女の母も脳梗塞で若い頃に亡くなりました。

で、母親から彼女の葬式に来るように言われました。しかし、いざ行ってみると、そこには母ではなく私の名前で花輪が私に無断で出ていました。それもわざわざご丁寧に大きな字で私が働いている大手企業の肩書が添えられていました。そんな肩書は全く必要のない話です。
「誰がこんなことをしろと言った!」
私は恥ずかしくてキレそうになった。
これは明らかに、これから集まってくる遠戚たちを見返したい気持ちでいっぱいの母親の浅知恵に違いありませんでした。

その後、お通夜の際に母と控え室にいると、予想通りに私がこれまで会ったことのない知らない遠戚が次々とやって来ました。しかも母親はその遠戚たちを昔からよく知っているようでした。
この先、嫌な予感しかしなかったのですが、いざ大勢集まると、母親が私に横に座るように言い、いきなり私の横で遠戚たちに私の自慢話を始めました。

母親が言っていることを要約すると、
「私が日本人の夫と結婚したのは正しかった。
結果としてこんな優秀な息子が生まれた。
この子は私が産み育てた。
だから私の結婚は正しかったんだよ。
間違っていたのはあんたらの方なんだよ。
あのときはよくも私たちの結婚に反対してくれたな。
忘れたとは言わせないぞ。
あのときのことは絶対に許さないからな。」

「池に落ちた犬を棒で叩く」とはこのことでしょうか。あまりにも露骨で私はうんざりしました。
それで私は正座して喋り倒す母親の足を長テーブルの下で押したり叩いたり力強く思いっきりつねったりしたのですが、まるで効果がありません。最後には私の家の鍵の先を正座している母親の足の裏に思い切り突き立てたのですが、痛くも痒くもないようでした。
母親はその後も取り憑かれたように喋り倒していました。遠戚たちも流石にうんざりした顔をしていました。

(ここでしばらく休閑)

元々この文書は日韓ハーフの私とFacebookについての話を書くための前振りのつもりで書いていたのですが、いつの間にか、いつもの如く母親の話になってしまいました。
このあとに続く以下の文書が本来の主題です。
これまでの話は、これからお話しする深い話を説明するための伏線、プレリュードに過ぎなかったのです。
というわけで、このあとのお話は以下の文章に続きます。本文中、この文章の内容も微妙に続きます。

「【随筆】日韓ハーフの私とFacebook」


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