ヘイトスピーチは「心の口臭」です。


ヘイターは歯を磨いてない臭いお口で「自分が勝手に正しいと思い込んだこと」について他人に対して怒鳴り散らすのですが、ヘイターの本当の問題は歴史認識でも政治問題でも在日特権でもありません。


本当の問題は「その人の心のお口が臭いこと」です。またその臭いは「その人固有の臭い」だからその臭さは千差万別です。


「斜に構えた態度」「嫌味な言い方」「小物感を強調する大物ぶった態度」「ネチネチした態度」「慇懃無礼な態度」「wwwの冷笑」「必死に相手の必死さを指摘する」「自分と同じ考えの有名なオピニオンリーダーへの子供じみた言いつけ的なご報告」「マウント取り」「知ったかぶり」「揚げ足取り」など、それぞれに個性が出ています。


要するに、ご本人の「心の体臭」がそのまま言葉と態度になり「心の口臭」になって現れているだけなのです。しかし、ご本人にはその自覚症状がまるでないのです。彼らは自分自身の「心のお口が臭いこと」に気がついてないのです。


そこでヘイトスピーチをしている人に自覚症状という「心の手鏡」と口臭を除去する「心の歯磨き粉」を進呈しようとすると、必ずといっていいほど、話を逸らされ、「心のプロレス」、もっと言えば、「日本人だらけのバトルロイヤル」が始まります。そしてマイノリティーが真っ先にリングから追い出されるのです。


「悪いのは韓国・北朝鮮の方、歴史認識が、政治問題が、在日特権は許せない、我が国の国益のために」


といった提唱者不詳の、


「お前には分からない俺なりの自説」

(↑自分で調査検討したわけではない誰かの受け売り)


が、


「嫌韓本に書いてあった知識」


いう「証拠」とともに返ってきます。



ゲーテは言いました。


「見識の代わりに知識を持ち出す人がいる」(ゲーテ)



イエスは言いました。


「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」

(ルカによる福音書 第23章41節 『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年)



彼らは言います。


「在日韓国朝鮮人50万人のうち95%が犯罪者である。」


その人はどうやって45万人分の犯歴を調べることができたのだろうか。ちょっと考えれば分かりそうなものだが。


「在日は働かないで生活保護を毎年600万円貰って遊んで暮らしている。」


それが本当ならば、私も若い頃に今は亡き在日の母に頼んで生活保護を貰ってもらえばよかった。

そうすれば、私も親の負担にならずに、他の子と同じように塾にも通えただろうし、ファミコンも買ってもらえただろうし、シャツも3枚以上所有出来ただろうし、1足しかなかった運動靴を洗うと乾くまで外出できないという不自由もなかっただろうし、両親が共働きで休めない中1ヶ月に及んで寝込んだおたふく風邪の後遺症でムンプス難聴になり左耳を失うこともなかったのかもしれない。



さらに言えば、


「韓国に関することなら、何でもかんでも屁理屈をこじつけて非難せずにはおられない」


という彼らの態度には「弁別性」(ケリーのANOVAの用語、以下、同)が感じられませんし、むしろ「弁別性がない」という点において「一貫性」(同)が感じられます。


しかし、それらの主張はすべてご自分の「心の口臭」を自己正当化するための「我田引水な理屈や建前」に過ぎません。


実際には、それの理屈や知識は、自分の「心の口臭」を誤魔化すための「心の香水」に他ならないのです。


冷静に考えれば分かることですが、何日も歯を磨いていない人が口臭をごまかすために自分に香水を振りかけても心の口臭を誤魔化すことは出来ません。

そんなことをしなくても自分で自分の歯を磨けばよいだけの話です。


いずれにしても「ご本人固有の個性的な心の臭い」を考えれば、本来の問題はご本人の「内的属性」(同)にあるのであって、在日がどうこうという「外的属性」(同)は「ヘイトスピーチという心の問題の本質」ではありません。本当の問題は理屈や知識ではなく心の臭いの問題です。


そのことを指摘すると、今度は、彼らは、


「だって俺の意見は多くの仲間たちに支持されている」


仲間同士でお互いに頷き合い、認め合いながら、ご自分の意見にさも社会的な「合意性」(同)があるかのように言い始めます。



イエスは言いました。


「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」

(ヨハネによる福音書 第9章41節 『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年)



あるいはサルトルの言葉を流用して言えば、

「人間は自由の刑に処せられている」

ということでしょうか。



考え違いをしてはいけません。


「俺の意見は多くの人たちに支持されている」


のではなく、実際には単にそれが、


「誰でも知っている誰かの受け売りだから頷く人が多い」


だけの話です。


それは、


「『お前じゃなくて俺が支持されればいい者』同士の呉越同舟」


に過ぎないのです。


特にこの国においては、この国の人同士の意見がお互いに「多くの人たちに支持されている」かのように錯覚してしまいがちです。しかし、それは単にこの国が、

「ほぼ単一民族国家で島国」


であって、


「あなたと同じ属性の民族、国民が圧倒的多数を占めているから」


に他なりません。


たとえ、あなたがどんなに「多数の支持者」を集めたところで、その人たちが皆「その問題においてあなたと同じ立場で同じ属性を持つあなた側に立つあなたと利害関係が一致したステークホルダー」なのであれば、その意見はどこまで行っても金太郎飴なのであって、


「自分も含めて1種類の人間、同じ立場の人間にしか共有されていない1つのニッチな意見」


に過ぎないのです。


何故ならば「私たち」は「私」の延長に過ぎないからです。


例えば、高齢化社会である日本では、これから毎年のように「老人の意見」がこの国での支持率をぐんぐん上げていくことでしょう。何故なら、


「彼らの意見は圧倒的多数の老人たちによって支持されている」


からです。


それと同じことです。



さて、あるところにクラスの人気者になりたい性格の悪い子がいました。


ある日その子は皆んなの前で元気いっぱいに叫びました。


「○○ちゃんが嫌いな子、この指止まれ!」


その子はその後、大人になって、立派なヘイターに成長しました。


しかし、大人になっても「○○ちゃん」が「在日」に置き換わっただけで、精神は全く成長しておらず、他人を思いやる気持ちが全く育っていないのです。つまり知育ばかりで徳育がなっていないのです。可哀想な人ですね。



話は戻りますが、彼らが共通の敵を作ってまでお互いを認め合うことで支持者数を増やしたがるのもそのためです。彼らはなりふり構わない支離滅裂なことを平気で発言し、仲間を集めてはお互いに無条件に認め合います。


ヘイターは在日などの立場の弱いマイノリティーの人たちを自分のストレスやヒステリーの都合のよい吐き捨て場にしたり、自分が目立つための引き立て役ややられ役として利用したり、あるいは己の人脈を形成するために有効活用したりしているだけの話なのです。



古代の中国神話に登場する(三皇)五帝のひとりである舜は言いました。


「不虐無告(無告を虐げず)」(『書経』)


告げる口のない人たちを虐げるものではありません。


昔から「旅の恥は掻き捨て」と言いますが、今の世の中はまさに「SNSの恥は掻き放題」となってしまいました。


しかし本当に大切なのは、支持者数でもなければ、支持率でもなく、支持してくれる人たちの異なる属性の数です。どれだけの立場の人たち、異なる立場のステークホルダーがあなたの意見を支持してくれているかです。


自分の意見が世の中において本当に支持されているかを知りたいのであれば「私たち」の中の人たちに聞くのではなく、「彼ら」や「あなたたち」に聞かなければ意味がありません。


言い換えるならば、それは「あなたとは異なる立場の人たちの異なる属性の数」によって測られなければなりません。


他のステークホルダーはあなたの意見に対してなんと言っているのでしょうか。特に利害関係の対立している場合においては。


逆に言えば、あなたの意見は立場を変えてみて納得がいくものなのでしょうか。

もっと世の中を複眼的に見る必要があるのではないでしょうが。


そう言われると、彼らは今度は自分と同じ意見を言ってくれる(在日)外国人を探し始めます。


彼らはどこまでも逆走を続けていきます。


その結果「嫌韓外国人タレント」がスカウトされ、テレビや嫌韓本に登場し、この国で有名になり、大いにもてはやされ、引っ張りだこになります。


特にその嫌韓外国人が韓国人であれば「三顧の礼」をもって迎え入れられることでしょう。

そんな逸材は滅多にいませんからね。


「嫌韓が流行れば、嫌韓外国人タレントが儲かる」


という分かりやすい社会構造が出現してしまいました。


そして彼ら嫌韓外国人も第三者の自分には実害はなく、大いに儲かるので一生懸命あなたに協力しリップサービス旺盛な日本人以上にこの国を愛する愛国者になってくれるのです、契約期間中は。


そしてブームが過ぎれば、稼いだ大金をすべて自分の口座に入金した彼らは悠々と愛する家族のいる自国に帰っていきます。


しかし、そうやって嫌韓外国人を探そうと粘る人はまだましなのかもしれません。


手抜きな人になると「俺にだって在日の知人がいる」の安易な一言で、どんなシーンでも自分の意見の免罪符として使えるものだと思っています。



ところで、話が逸れますが、ヘイターにおいてさらに不思議な生態を目撃することがあります。


彼は自分が大好きな漫画、アニメ、映画を鑑賞する際に、主人公に感情移入するあまり、ご自分は「追われる立場の悲劇的なマイノリティの主人公」だと思い込み、毎回観賞中ハラハラしっぱなしで「自分と同じマイノリティーでより立場の弱い者たち」を庇って自らの命を投げ出し「圧倒的多数でありえないほど強力なマジョリティー」にひとりで立ち向かい、最後は「同じマジョリティーの仲間たちのために非業の死を遂げる悲運のヒーロー」であるかのように自己犠牲の精神に浸り切りながら、その手の作品を堪能します。


そして、


「本来ならば、実際にそのような目にあってきたマイノリティーだけが味わうことの出来る本人でさえスッキリしないリアルで健気な武勇」


にご本人がが代わりに酔いしれて、次から次へと似たような作品を探し回っては梯子し、同じような自己犠牲の耽溺を繰り返します。


しかしそういった創作の鑑賞で得られる感動は実態のある本物の味とは明らかに異なる無果汁の人工甘味料でしかありません。

しかし彼らはその本物を味わったことがないのでいつまでも気がつかないのです。


そして彼は、眠い目を擦りながら本を閉じて、ファンタジーの世界から実生活に帰ってきます。

そしてその途端に、別人のような世間の傍観者になり、

「たまたま目の前の道端で倒れた頭が血だらけの中年男性


を見つけると、無言かつ無表情にご自分のスマホのカメラで記念撮影をしたりします。


彼らは実際の人生においては、傍観者、観賞者、消費者に過ぎません。


それどころか、中には作中とは真逆の迫害者の立場になったりする人もいるかもしれません。


要するに彼らは創作の世界においてあれだけ感動しておいて、現実の社会においては決して漫画やアニメの主人公のように生きようとはしないのです。


美味しいものは食べたがるが、自分は決して美味しいものを作り出して社会に提供しようとはしないのです。


ただただ夢遊病者のように自分が食べたい感動を求めてさ迷い歩くばかりです。


彼らは芥川龍之介のいう「路傍の石」どころか、その路傍の石を何も悪いことはしていないマイノリティーの人たちに平気で打つけて何の疑問も感じていないのです。


何という壮大な「言行不一致」でしょうか。



キルケゴールは言いました。


「彼らは善や真を粉飾的に、また空想的に弄ぶのみで、自ら進んで実存的に、善及び真それ自身であろうとしないところの罪の状態に放置されている」(キルケゴール)


これは彼らにとってあまりにも致命的な指摘です。



またメーテルリンクは『貧者の宝』だったかで、おおよそ以下のようなことを言っていたと記憶します。


「英雄には庶民の賞賛が必要だが、庶民が英雄に対してそれを求めることはない。」



しかし、今日の時代は、むしろ「庶民の賞賛を求める庶民」がSNS上に溢れかえっています。


それぞれがお立ち台に立ちたいのでしょうが、


「バブル期のジュリアナ東京のお立ち台」


ではないのですから、扇子を広げてないで素直にお立ち台から降りましょう。


彼らはわざと賛否両論の激しいことを言いふらして歩き、多くの敵と味方を作り出し、敵は一切相手にせず、味方だけを仲間に取り込んでいくことで「俺を支持してくれる、多くの友人、仲間、支持者、支援者、協力者」の数を増やし「根拠のない自信」を深めて行きます。これがいわゆる「炎上商法の本質」ですが、彼ら自身の正体は「受け売りだらけの自分のないフリーライダー」に過ぎません。


世間の人たちはあなたを支持しているのではなく、あなたの受け売りを通して「それを最初に言い出したイニシエーター、オピニオンリーダー、仕掛け人」を支持しているのに過ぎません。


ついでに言えば世の中にはあなたよりも無知な人はいくらでもいて、彼らはその見識があなたのものか他人からの受け売りなのかの区別がつけられないのです。逆に言えばそういった人たちを狙ってオルグしていけばあなたの人脈はますます広がっていきます。


これでは怪しげな信仰宗教団体を起こした教祖様がやっていることと同じです。宗教に無知な人にはそのありがたいお話がその教祖様のものなのか、イエスのものなのか、お釈迦様のものなのか、区別がつかないのですから。


話はそれましたが、そういった真のイニシエーターに比べ、


「受け売りだけで何か自分の意見を言ったような気になっている」


あなたは、


「いわば『差別の中抜き構造』の一部を構成しているところの無名な『差別の中間搾取者』」


に過ぎないのです。



結論を言いますが、あなたは差別に加担し、(同和利権、アイヌ利権、在日特権ならぬ)「差別利権」に群がり、いずれ社会全体の負担になって返ってくる「差別の負債」を膨らませているだけです。



「差別に加担しておくだけで、働かなくてもよくなり、あとは『心の生活保護』をもらって一生遊んで暮らせるのだ」


と高を括っているのであれば、それは大間違いです。



自分の「心の口臭」を嗅いで目を覚ましましょう。