母方の祖父は戦後すぐに亡くなった。その後、伯父、おばたち、年上のいとこのお姉さんも亡くなった。どうも祖父には高血圧の問題があって、その血を引く者もその影響があるようだ。私もだが。


十数年前に叔母が倒れ、3年前に亡くなった。後を追うように母も倒れ2年ほど入院していた。最後には認知症を起こしていたのか、たまに私も忘れてしまい、泣きながら「あんたは誰だ」というので「あなたの息子です」と答えた。


その母は昨年の四月に亡くなった。当時、私は仕事が忙しく、母の臨終に立ち会えなかった。

自分の判断ミスもあった。無駄な荷物が多く、実家の駅に着いて、一旦実家に帰り、荷物を置いて病院に行った。母は20分前に亡くなっていた。荷物など投げ捨て、地元の駅から病院に直行すればよかった。


人間は死んでも数分は大脳新皮質と聴力が生きており、話しかければ気持ちを伝えられるらしい。しかし、それにも間に合わなかった。私は意識のない母に一生懸命話しかけた。感謝とお詫びを伝え、許しを乞うた。母はまだ暖かかった。


しばらくして面識のないおばさんたちがたくさんやってきた。おそらく地元の日本人の人たちだろう。母の友人だったらしい。皆、眠る母の顔を覗き込み、目を真っ赤にして泣いていた。私たち家族よりも泣いていた。

在日韓国人の母はおしゃべりで図々しい方だったから、周りのおとなしい日本人の人たちは付き合いきれないのではないかと思っていたが、母のためにこんなに泣いてくれる日本の人たちがいるとは思わなかった。

また私はその人たちから感謝された。私が晩年の母になるべく親孝行をするようにしていたのだが、それを母からあれこれ聞いていたようだ。


それから葬式をすることになり、私たちは病院から斎場に移動した。葬儀屋と父が色々と打ち合わせを始めた。


その夜、渋滞にはまっていた兄夫婦がやってきたが、斎場に泊まれないので、その後、ホテルに移動した。私は父と2人で斎場に泊り込むことになった。


夜が更けて、私は棺桶の中で冷え切った母の額に口づけをした。母の額はかき氷のように冷たかった。

「お母さん、また私を産んでくださいね。」


そのあとしばらくして、父も棺桶に行き、母に何かしらを話しかけ始めた。私は席を外し、夜のコンビニに買い物に出かけた。両親は50年以上一緒に暮らしていた。私より付き合いが長いのだ。


末っ子の母は同世代以上の親族が皆亡くなっており、葬式に来られる親族がいなかった。代わりに翌日父方の叔母や叔父などの親族と先日のおばさんたちがやってきてくれた。特に仙台からやってきてくれた叔母は兄の結婚式以来で懐かしかった。


葬式は翌日に日本人だけで行われることになった。


その夕方、私は斎場からわりと離れた大型スーパーまで歩いて行き、父と叔母の寿司を買ってきた。


その夜、私たちは三人で布団を並べて寝ていた。その向こうには母の棺があった。

人付き合いが苦手な私は背を向けて寝たふりをしていた。すると父と叔母が布団の中で会話をし始めた。それは今まで聞いたことがない兄妹の会話だった。私はそれを聞いて布団の中で泣いていた。父が在日韓国人の母と結婚すると言ったとき、色々と事情があり、若かった妹の叔母は大変心配していたのではないかと思う。しかし、その夜の叔母の言葉はとても暖かかった。


母は荼毘に付され、骨と灰が残った。