小さい頃、私はときどき母に連れられて双子の叔母の家に行った。


叔母は祖母を引き取っており、そこはお婆ちゃんの家でもあったが、祖母は大変無口な人でどういう人かよくわからなかった。


その祖母がときどき私のうちに来て泊り込むことがあった。


祖母は若い頃にも米を担いでやってくることがあったようだ。


幼稚園児だったあるとき、私がいつものテレビマガジンを買ってくれと母に頼むと、母はたまたまいた祖母にお供を頼んだ。


それで私は祖母と一緒に近所の書店にテレビマガジンを買いに行ったのだが、その間、祖母は一言も喋らなかった。


私は店内で「お婆ちゃん、これが欲しいのだ」と言ったところ、祖母は小さながま口を取り出して、しわくちゃの伊藤博文の千円札で買ってくれた。私は上機嫌で祖母と帰ってきたけど、結局、祖母は一言も喋らなかった。


当時、私は母や祖母が在日韓国人だと知らなかった。特に祖母は一世で日本語が不自由だったようだ。おそらく日本人の父や日韓ハーフの私たちに気を使ってたのかもしれない。


その後、私は小学生の高学年になり、私は母が日本人ではないことに気がついた。


親戚のうちでおばたちが「私たち韓国人は」というので驚いた。

「おばちゃんたち、韓国人て何の話?」

すると今度はおばたちの方が驚いていた。

「あんたは何も知らんのか?」

「あの子、この子に何も言うとらんのじゃわ。」

「あとであんたがお母さんに聞きんさい。」


それで私は広島に帰ってから母に聞いた。「お母さんは日本人じゃないのか」と。

すると母は財布から免許証を取り出して私に見せた。私は驚いた。


その頃は80年代の初めで、韓国では光州事件が起きていたが、私はよく知らなかった。


同じ頃、祖母は臨終が近く、山口県の海辺の病院に入院していた。海辺にはカブトガニがたくさんいた。


あるとき、私は母に連れられて祖母のお見舞いに行った。その病院は田舎にあり、長い道を辿ってようやくたどり着いた。途中、春ののどかな田舎道があり、その途中に幅が1メートルもない美しい小川があった。名も知れぬ小さな春の花々が咲き、蝶が舞っていた。母は小川を軽々と飛び越えたが、私は渡りきれず落ちた。母は笑って私を抱え上げた。


病院に着くと祖母が寝ており、母は売店で爪切りを買ってきて、祖母の爪を切り始めた。祖母の伸びた爪には黒い垢がたまっていた。母は泣きながら祖母の爪を切っていた。


それから母は祖母に言った。


「ねえ、お婆ちゃん。この子、お婆ちゃんに聞いてみたいことがあるんと。」


私は突然で何のことかわからなかったが、とりあえず聞いてみた。


「お婆ちゃんは朝鮮人なの?」


祖母は薄曇りの窓を見て答えなかった。


祖母が答えないので私は続けて言った。


「いつか、みんなで韓国に旅行したいね。」


しかし祖母からも母からも返事はなかった。


それからしばらくして祖母は亡くなった。


葬式があり、親族たちが集まってきた。皆祖母の死を悲しんでいた。しかし私が驚いたのは、皆、口々に祖母の雄弁さを語ることだった。祖母は一族の指導者であり良き相談相手だったのだそうだ。私は祖母が喋るのをほとんど聞いたことがなかったからこれも意外だった。

かつて祖母が叔母の家にいたとき、私たち孫たちは祖母の口癖の「アイゴ、アイゴ」を真似して面白がって喋ってた。


それから母が泣いているので声をかけた。

「お母さん、何で泣いているの?」

すると母は言った。

「若い頃、アパートに住んでいた頃、お婆ちゃんに家族の夕食の牛肉を100g買いに行かせたら、脂身ばかり買ってきたから怒って返品に行かせた。かわいそうなことをした。」


それから親族は祖母の棺桶にお札を詰めて泣いていた。あの世でお金に困らないようにと。棺桶の蓋に丸い石で釘を打って閉めて、祖母は荼毘に付された。私は人骨というものを初めて見た。


祖母の墓は祖父と同じく山口県にあり、その後何度か墓参りに行った。