最近同じハーフでも人種間と民族間で日本人から言われることってだいぶ違うなあと思ったのだけど、他には世代間の違いもあるかもしれない。

1993年ごろに言葉狩りの論争があったけれどもあの前後で日本人によるハーフへの発言もけっこう変わったのではないか。

それ以前は日韓ハーフの私が何か喋ると、日本人の反応が何か腫れ物に触るように敬遠されているように感じることが多かった。そもそも冬ソナブーム以前にはソウルオリンピック以外で韓国のことが日本で話題になることはほとんどなかったから、日本人は韓国のことがよくわからず敬遠してたのではないか。

その後少しずつ日本人のノリが変わってきたのではないか。相変わらず韓国への関心は低いのだけど、わけわからず恐縮するような態度はなくなってきたように思う。


昔、15年以上前、ブログに書いたことを思い出した。こういう趣旨だ。

差別における偏見は宇宙人の想像図に似ている。

50年前の宇宙人の想像図を見ると子供でもバカバカしく見える。しかし今どきの宇宙人の想像図は昔に比べるとずっとリアルで実際にそんなものがいてもおかしくないなという気になる。生物学的にあり得そうな宇宙人がそのままどこかの星にいることが確認されているわけではない。実物を描写したものではないという点において、想像のリアリティーはなんの意味も持たない。結局想像図でしかないという意味では本質的に昔の宇宙人像と変わらない。

これは差別における偏見も同じではないか。昔の日本人が想像する在日像は荒唐無稽なものが多かった。しかし(在日とは関係ない)凶悪犯罪の情報などを加味して想像された最近の在日像はとてもリアルだ。

しかしそれは在日の平均的な全体像として正しいのだろうか。

大事なことは偏見にもリアリティーがあってその度合いによって人は簡単に騙されることがあるということだ。


昔あるところに一人の浮世絵師がいた。彼は噂に聞いた象を実物を見たことがないまま想像で描いた。

そしてそれを自信を持って外国人に見せると鼻で笑われた。

「象はこんな生き物じゃないよ。」

彼は悔しかったが象を見ることができなかったので代わりに身近にいる犬や猫、馬を観察して描き直した。

そしてそれを再び外国人に見せると、その外国人は彼の描写のリアルさには感心したが、再び同じことを言った。

「象はこんな生き物じゃないよ。」


差別問題についての意見が溢れているけど、実体験についての深い洞察はあまり見当たらない。

被差別者の人が実体験として差別されたという証言はたまに見かけるのだけど、唐突に石を投げられた、ガイジンと囃し立てられた、というところから始まっていて、そこまでの背景がよく分からない。


『仁義なき戦い』って映画がありますね。あれ在日の人は見たことあるかな。私は遠いノスタルジーを覚えるのですけど。

西城秀樹の「ヤングマン」が流行っていた頃に、伯母が出かけようと言ったのでついて行ったんですよ。

私はずっと高い塀の外で伯母が帰ってくるのを待っていた。

従姉妹のお姉さんが私の相手をしていた。言ってる意味がわかりますか。

私は若い人たちや最近在日の問題に興味を持った人たちに(その人が日本人か韓国人かに関係なく)全く期待してないんですけどね。

だってみなさんは蓄積がないじゃないですか。

こう言うことを言うと「オッサンがマウントをとりにきた」と嫌がるでしょうけど、実際こちらからするとマウント取り放題なんですよ。

だってみんな昭和の在日について何も知らないじゃないですか。

本で覚えた知識は何にもならないですよ。

バブルの頃にフル稼働させてた部落の屠殺場の血の匂いが新書で嗅げますか。