私が思う韓国というのは結局昭和の時代に日本人社会にあって在日の母親を通じてぼんやりと思い浮かべていた韓国なんだ。


例えば街に出れば中国人が経営する中華料理店があるね。赤色の店内に福の字を逆に貼り付けてあるような。私が思い浮かべる中華料理屋はそれはなくて昔からある下町の中華料理屋。

例えば、私が友人に「中華料理が好きなんだ」と言ったら「いい店を知ってるよ」というので連れて行ってもらったらそこは立派な本格中華のお店で「いや違うよ。こういうお店じゃないんだ。オムライスとかやってる下町のひなびた中華料理屋だよ」みたいな。


そういえば大学時代にもよく学友から「理解してくれる優しい人に巡り会えますように」という意味のことを言われたなあ。「お茶漬け食っていきなはれ」みたいなニュアンスしか伝わってこなかった。


個人的には日韓ハーフと言ってもだいたい腫れ物に触るような感じでスルーされます。「ああ、そうなんだ。」で会話が終わってしまう。あれはなんだろうか。


ハーフの人たちの体験談を聞いてるとずいぶん自分と違うなあと思う。私の場合身近な人に自分が日韓ハーフだと言ってもその先話が進まない。良くも悪くもリアクションが返ってこない。Twitterもそう。おそらく日本人に近すぎるハーフに対する日本人独特の反応なのではないか。


日本人はハーフに対してかなり限定的なイメージを持ってるんじゃないか。要するに異人種間ハーフ。だからイメージ通りのハーフに出会うと誰でも思いつくような質問を無遠慮にぶつけるけど、イメージと違うハーフ、特に日本人と変わらないハーフに出会うと質問が思い浮かばなくて黙っちゃうんだよね。


いわゆるアウトローな生き方って分からないではないけど、自分がそうなりたいとは思わない。何故なら自分はそういう環境が身近にあって、そこから抜け出そうと生きてきたから。境遇などについて分からないではないけど憧れはしない。


私の人付き合いがうまくいかない一番大きな理由は私が他人の生い立ちにしか興味がないからではないかと思う。ここでいう生い立ちには経歴は含まれない。私は他人の経歴には全く興味がない。知りたいのはその人が今日まで何を観て何を考えてきたのかだ。

以前「自分語り」という言葉が流行った。ネガティブな意味で使われていたが、私はむしろ自分語りができる人間の方が好きだ。逆にできない人に出会うと接しようがなくて途方に暮れてしまう。

生い立ちは本人によって語られなければその深奥まで窺い知ることができない。

例えば力道山は興味深い人物だがその生い立ちはよくわからない。しかし例えば梁石日は作家であり自伝的な小説をたくさん書いているのでその生い立ちが分かりやすい。結果として力道山より梁石日の方が好きになりやすい。

よく過去を振り返るなという人がいるけれども、だいたいそういう人に私は興味がない。何故なら過去を振り返らない人は過去を振り返れないのが普通でありその生い立ちが窺い知れないから。

私が他人の生い立ちに興味を持つのは母親の影響かもしれない。私の母はいろいろあってその生い立ちのほとんどを私に語って聞かせなかった。それで私は母の生い立ちに興味を持って母を見ていた。その結果として母親だけでなく他人をみるとその人の生い立ちに興味を持つのかもしれない。

過去形のことには興味がない。大事なのは現在完了形のことだ。だから過去を振り返るなという人はそもそも価値観を共有していない。

例えば、ある親が子供を虐待していたときにそのことだけでその問題を理解するのは難しいだろう。しかし時間をかけて調査するとその親自身が子供の頃にその親に虐待されていたという生い立ちがわかるとその理解が深まる。

知りたいのはその親が子供にどんな虐待をしていたのかだけではなくて何故虐待をするようになったのかだ。そのためには過去から現在までを振り返らなければならないだろう。