今日、毎日新聞のニュースで以下のような記事がありました。


路上生活者:34%、知的障害疑い 支援の必要性指摘 東京・池袋で調査
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100302ddm012040008000c.html
(路上生活者:34%に知的障害の疑い 東京・池袋で調査)
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100302k0000m040127000c.html



読んでいて、考えさせられることが多かった。

いわゆる知能指数が70以下だと、知的障害の疑いがあるレベルなのだそうです。で、今回、路上生活者を対象に調査したところ、その70以下の人が非常に多かったのだそうです。通常なら2%程度のところが、34%もいるのだそうです。


小さい頃、子どもの言葉で、バカとか、アホとかいう言葉を覚えて、何となく使っていました。その後、大きくなって、知能指数というものがあることを知りました。そのとき、「なるほど、人間の頭の良さは数値で測れるのか」と妙に納得しました。しかし、その後、さらに大きくなって、基本的人権の尊重とか、人間平等という考え方を学んでから、知能指数について考えることに後ろめたさを覚えるようになりました。仮にそれが客観的な事実であるにしても、ある人を指して「あの人は知能指数が低い」と言ってはいけないと思うようになりました。しかし、今回改めて考えてみると、その後、知能指数について意識的に考えた記憶がないことに気が付きました。どうやら自分の中で、それについて考えることがタブーになってるようです。しかし、最近、不況が厳しくなって、生活格差などが大きくなってきたことで、こういう問題を改めて考えなければならない状況になっているのかもしれません。


上の記事に42歳男性の個人経験が紹介されています。この男性は軽度の知的障害があるそうです。しかし、インタビューへの受け答えなどを聞いていると、それほどひどい知的障害でもなさそうです。


考えてみるに、この軽度の知的障害というのが微妙な問題を生んでいるのではないかと思います。もし、この障害が重度のものであれば、誰でも気が付くのでしょうが、軽度の場合、なかなか気が付かれないのでしょう。その結果として、かえって、周囲からの誤解や不和が生まれやすいのではないでしょうか。何でもかんでも本人の怠慢のせいにされてしまうこともあるのではないでしょうか。住み込みで働いた際になぜしかられるのか分からなくて仕事をやめたというところからもそんな気がします。


少し話がそれますが、私は片耳が聞こえないので、やや耳が遠い。そのせいか、あまり付き合いのない人とやりとりをしていてトラブルになることがときどきあります。相手の話が聞き取れなくて、私が聞き返すと、「てめえ、俺の話を聞いてなかったのか」というようなリアクションが帰ってきて、びっくりすることがある。もし、私が完全に耳が聞こえなかったら、相手も気が付くだろうし、親切に説明してくれるのだろうと思うのですが、片耳の場合、相手が気が付かないまま、その人の早とちりでこちらが話を聞いていないと解釈されたりするのですね。軽度の知的障害の場合も、それと同じことがあるのかもしれない。


また、個人的な話ですが、最近、母とコミュニケーションを図るのが難しいと感じることが多いです。私の母は昔から理論的な思考が苦手なところがあって、一緒にいても、どうしてそんなことをするのか分からないことが多いです。あつかましい性格も原因としてあるのでしょうが、ちょっと考えれば分かるようなことをろくに考えずにしでかして、周囲の人が迷惑を受けることがとても多いです。「コイン・ポリッシュ」というのでしょうか、やることなすこと、ありがた迷惑なことや自己満足にしかならないことが多い。


母が若い頃はそれほどでもなかったのですが、最近、どんどんそれがひどくなっている気がします。ひとつには耄碌しているのかもしれないし、もうひとつは年金暮らしになって、生活の心配がなくなってから、本人がわがままになってしまったところもあるのかもしれません。特に8年前に私が今の一流企業に勤めるようになってから、それについての親の立場での身勝手な自慢話がどんどんひどくなって、周囲の人たちや私にかなり迷惑をかけていました。それで、ここ数年、母に振り回されて困っていたのですが、私も最後には怒鳴りつけたりして追い払うことが多くなりました。兄や親戚のお姉さんも同じように思っているようです。しかし、母からすれば、どうして周囲の人たちから怒られるのか全然分かっていない様子です。


私は思うのですが、思いやりというのは、必ずしも心だけで成り立っているわけではないのではないでしょう。思いやりを形にするためにはどうしても理論的な思考力、つまり頭の良さが必要です。それがなければ、思いやりはいつまでたっても幼稚な形にとどまるでしょう。そのうえで改めて考えてみるのですが、やはり母は理論的な思考が苦手なんだろうと思います。そう考えてみると、怒鳴ったりしても仕方がないのかもしれません。根気強く対応するしかありません。


個人的な話になりましたが、いろいろな人がともに社会で暮らしていくためには、本人も周囲ももう少し意識してその状況を理解し、その対策を考える必要があるだろうと思います。



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以下、記事の写し:

路上生活者:34%、知的障害疑い 支援の必要性指摘 東京・池袋で調査

 東京・池袋で臨床心理士らが実施した調査で、路上生活者の34%が知能指数(IQ)70未満だったことが分かった。調査グループによると、70未満は知的機能障害の疑いがあるとされるレベル。路上生活者への別の調査では、約6割がうつ病など精神疾患を抱えている疑いも判明している。調査グループは「どうしたらいいのか分からないまま路上生活を続けている人が大勢いるはず。障害者福祉の観点からの支援が求められる」と訴えている。

 調査したのは、千葉県市川市職員で路上生活者支援を担当する奥田浩二さん(53)ら臨床心理士、精神科医、大学研究者ら約20人。池袋駅周辺で路上生活者を支援する市民団体と協力し、本格的な研究の先行調査として昨年12月29、30日に実施。普段炊き出しに集まる20~72歳の男性168人に知能検査を受けてもらい、164人から有効回答を得た。

 それによると、IQ40~49=10人▽IQ50~69=46人▽IQ70~79=31人だった。調査グループは「IQ70未満は統計上人口の2%台とみられることからすると、10倍以上の高率」としている。先天的な障害か、精神疾患などによる知能低下なのかは、今回の調査では分からないという。

 調査グループは、IQ40~49は「家族や支援者と同居しなければ生活が難しい」▽50~69は「金銭管理が難しく、行政や市民団体による社会的サポートが必要」▽70~79は「日常生活のトラブルを1人で解決するのが困難」と分類している。

 調査結果は3日、国立精神・神経センター精神保健研究所(東京都小平市)の主催で開かれる専門家のシンポジウムで発表される。【桐野耕一】

 ◇「助けなければ今も路上」
 長年路上生活を続けた知的障害の男性(42)がさいたま市にいる。2年前、NPOの勧めで市に申請し、療育手帳を交付された。男性は時系列に説明することが苦手で、生活費の管理もままならない。「助けがなければずっと路上にいたと思う」と話す。生育歴を聞き取ったNPO法人「ほっとポット」のメンバー同席で取材した。

 男性やNPOによると、男性は中学卒業後、親類の飲食店で働いたが、仕事を覚えられず半年間で辞めた。両親の住む県営住宅に戻り28歳で結婚。両親の死後、33歳の時に家賃滞納で退去させられ、夫婦で路上生活を始めた。幼い子供3人は児童養護施設に引き取られた。

 さいたま市内の公園や橋の下で寝泊まり。住み込みで働いたこともあったというが、同僚からなぜしかられるのか理解できず、1年程度で辞めた。妻は路上生活のストレスから何度も倒れ、病院に運ばれた。その際、知的障害が分かり、今は福祉施設で暮らす。男性は1人で路上生活していた3年前、地域のボランティアの紹介でNPOの支援を受けるようになり、今は生活保護を受給しながらNPOが運営するグループホームで暮らす。NPOメンバーが生活相談に乗ったり、仕事探しをサポートしている。ほっとポットの藤田孝典代表(27)は「行政やNPOを含めた総合的な支援が必要だ」と訴えている。【桐野耕一】