「愛の反対は憎しみではなく無関心である」 (マザー・テレサ)


「キング牧師の言葉」(日本キリスト教団出版局)のあとがきで、訳者の石井美恵子さんは以下のように述べている。
「世界のなかでも比較的平和な日本でとくに問題なのは、"無関心な態度"ある。自分や家族の生活に関係のないことには、関心を示さない。自分だけ、あるいは自分たちの群れだけで小さく固まってしまい、独自性を保ちながら自分と違う人たちと手を取り合うことがなかなかできない。無関心は、憎しみや反発よりももっと始末の悪い習慣のように思えてならない。」


一部の日本人がしばしば唱える「嫌韓感情」、あるいは、逆に一部の韓国人や中国人が唱えている「反日感情」は、日韓ハーフである私には、隣国に対する無関心が問題のように思えてならない。彼らが面識のない相手の人間に対して憎しみをむき出しにして何ら反省することがないのは、その根底に無関心があるからだ。よく知っているから憎むのではなくて、よく知らないから憎めるのだ。この問題は、私には、人間として、とても根深い問題のような気がする。
私は生きていてときどき感じることがある。それは、「世の中」と「世間」というものは、しばしば混同されるが、実際には似て非なるものであるということである。「世の中」と「世間」は同義語ではない。「世間」は「世の中」の部分集合でしかなく、世の中には各人のいう世間以外の世界が大部分を占めている。しかし、今日の世の中には、この両者を同一視している人、つまり、「世間にあらずば、世の中にあらず」という人があまりに多い。日本語に「世間知らず」という言葉があるが、むしろ、今の世の中には、世間はよく知っているのだが、世間以外の世の中にはまったく関心がないという人の方が案外多いのではないだろうか。
例えば、こういう人はいないだろうか。仮にその人をAさんとすると、ある日、Aさんが、友人のBさんがスキーツアーで足を骨折して入院したという知らせを受けた。すると、Aさんは真っ先に病院に駆けつけて、Bさんをお見舞いをした。Aさんは、とても、親切な人のようだ。ところが、そのAさんが、次の日、新聞を読んでいると、C国において内戦があり、10万人が虐殺されたという記事が出ていた。しかし、Aさんは特に気にとめる様子もなく、次のページをめくってしまった。客観的に考えてみると、ある人がスキーをしに行って骨折してしまったのと、ある国で10万人が虐殺されたのでは、後者の方がずっと大ごとのはずなのだが、どうしても主観的には、あるいは感覚的には前者の方に気持ちが行ってしまうのだ。
もちろん、多かれ少なかれ、誰にでも上のような一面はあるだろうが、世の中にはこのような態度が日常化している人が多いのではないだろうか。私自身、常日頃、在日の問題を考えていて、そのことをとても感じる。在日問題は、在日韓国・朝鮮人にとっては世間の問題である。また、日韓ハーフの私にとっては、世間の問題でもあり、世間外の問題でもある。それに対して、多くの日本人にとって、この問題は世間外の問題でしかないのだ。例えば、野坂昭如の「火垂るの墓」などを読んで涙が止まらないという日本人の話をしばしば聞くが、そのうちの、どれぐらいの人が、あの作品の主人公と同じぐらい悲惨な経験をした戦前・戦後の朝鮮人や台湾人に思いをはせたことがあるだろうか。多くの日本人にとって、在日問題は対岸の火事でしかなかったのだろうか。私はそれがとても残念に思えてならない。そう思うとき、私は、しばしば、イエスの有名な言葉、「汝、敵を愛せよ」を思い出すのである。


【参考】ルカによる福音書 6.27-36