ある日の夕方、私は仕事帰りの中央線に乗った。ようやく3分の1ぐらいまで来たところで、私の隣の空いている席に若い女性が座った。最初、気に留めてなかったのだが、何か臭いと思って、チラッと見ると、彼女がごそごそと何やら焼きたてのパニーニみたいな物を食べていた。その焼きたてのチーズの匂いがきつくて、ずっと臭かった。でも、彼女は、かなりお腹が空いていたのか、何かすごい勢いでがつがつ食べている。次から次へと、いくつも取り出して、食べている。その間、ずっと臭かった。しかも、その食べ物を包んでいる紙がカシャカシャとずっとうるさい。ちなみに、彼女は流行に全然関心がないのか、’80年代初頭の、’50sリバイバルのようなロングスカートにポニーテールをしていた。こう言う人はいるものだ。


一年前にも、同じようなことがあった。そのとき、私は山手線に乗っていた。すると、池袋駅から、男の子とお母さんの二人が乗ってきて、私の隣に坐った。どうも、お母さんの方がかなりヒステリックな人らしくて、ずっと男の子とのしぐさを叱っていた。「何でそんなことをするの!」、「どうしてじっとしてられないの!」みたいなことを大声でずっと言っている。実際のところ、男の子は全然うるさくなく、お母さんの方がよっぽどうるさかったのだが。仕方がないので、私はそのお母さん側にある自分の耳に人差し指を突っ込んで、「うるさいですよ」という仕草をした。最初、そのお母さんは気付いていなかったのだが、私が露骨にその男の子の前まで頭を伸ばして、指を突っ込んでみせたら、いいかげん自分がうるさいことに気がついたのか、ようやくおとなしくなった。私は、だいたい、上のようなことがあると、上のような対処をするようにしている。これが一番、平和的で、建設的な対処方法ではないだろうか。


それで、今回も、隣の若い女性があまりに臭くてうるさいのでやむを得ずいつものようにジェスチャーでこちらの気持ちを表した。なんとなく体を乗り出して、鼻をつまむしぐさをしたのである。それから、音もガサガサうるさいので、彼女の方の耳に人差し指を突っ込んで、彼女の見えやすい位置に示しました。しかし、今回の彼女はそれに気付かず、何やらずっとごそごそしていた。やれやれと思っていると、しばらくして彼女は紙袋をしまい、適当な駅で降りていった。


お互い様かもしれないが、世の中には、こういう無神経な人がいるものである。要するに「気付きのない人」だが。そういう「気付きのない人」を見ていると、私は次のように思うことがある。
「こういう人はもっと傷付いた方がいいのではないか。」
誤解のないように言えば、これは「こちらがこれだけ不愉快な思いをしたのだから、その人も同じように不愉快な思いをすればいいんだ」、という報復的な意味ではない。そうではなくて、こういう「無神経な人」を見ると、その人はもうちょっとその神経が傷つけられた方が、長い目で見れば、結局は、その人のためになるのではないかと思ったりすることがあるのだ。何故なら、「無神経な人」というのは、「神経が無い人」ではなくて、「神経が無傷の人」のように思えるから。ついでに言えば、この「神経が無傷の人」というのは2種類あるようだ。ひとりは、のんびり屋さん。のんびりし過ぎていて、あるいは、そういう生活が長く続いて、今日まで傷付く機会に恵まれなかった人。もうひとりは、過剰防衛の人。若い頃にちょっと傷つくようなことがあって以来、傷つくことに身構え、傷つくことを拒否してしまい、かえって今日までそれ以上傷つくことがなく、結果的に、それ以上は無傷のままでいる人。上の、山手線のママさんのようなヒステリックな人などを見ていると、後者の匂いがする。その上で、私は思うのだが、そもそも人間の神経は傷つけられることで研ぎ澄まされるものなのではないだろうか。人間というものは素直に謙虚に傷つけば傷つくほど神経が研ぎ澄まされ、それだけ気付くことも多くなるのではないだろうか。もちろんそれに耐えるためにはそれだけ心を鍛錬しなければならないだろうし、その気付きを意味のあるものにするためには、本人がそれだけよく反省しなければならないだろうが。何故なら、そうしなければ、ただの神経症になってしまうだけだろうから。そういう意味で、上のような人を見ていると、私は、温かい目で見守りながらも、あえて傷つけたくなることがある。と言っても、相手に嫌な思いをさせることが趣旨ではないので、なるべく効果的に、相手の人がハッと気付くようなやり方で、それが出来るといいのだけれども。それが、実際にやってみると、なかなかタイミングが難しいのだ。
「傷付けないで、気付かせる。」
まさに至難の業である。