例えばこんなことを考えてみる。あるところにAさんという無一文の人がいた。あるとき、Aさんは消費者金融から50万円を借りて、自分の講座に50万円を預金した。さて、このとき、Aさんの預金額はいくらだろうか。言うまでもないが、表向きは50万円で、実際は0円である。
私は常々思うのだが、人間が生み出す愛憎や善悪というのもこれと同じようなものなのではないだろうか。色々な人を見ていると、とても愛情の深い人がいる。たくさんの人に愛情を振りまき、誰からも愛されるような人。だが、しかし、この愛情の深い人というのも、さらによく見ると2種類ある。
一人は愛することが多く、憎むことが少ない人。
もう一人は愛することは多いが、憎むことも多い人。
私は若い頃この違いが分からなかったが、今ははっきりと分かる。両者は別物である。後者は愛情の深い人ではなくて、愛憎の激しい人である。その人が愛する量から、その人が憎む量を差し引いたら、そこには何も残らないのではないだろうか。私は思うのだが、世間的に愛情の深い人と思われている人が実は愛憎の激しい人でしかなかったということはわりとあるのではないだろうか。
そもそも人間が愛を得る方法は2種類ある。
ひとつは愛想のものを生み出すことによってそれを得る方法。
もうひとつは憎悪と引き換えにしてそれを得る方法。
前者が愛の生産であるのに対して、後者は愛の借り入れ、ないしは愛の転売でしかない。後者はある人への愛を削って他の人に振り向けているに過ぎない。ついでに言えば、敵の敵は味方であるという。例えば、A軍と戦っているB軍と戦っているC軍は、A軍にとっては、何の敵対関係もなかったら、味方も同然である。しかし、そのC軍は、A軍にとって、必ずしも盟友になるとは限らない。B軍が潰れたら、あっという間に、お互いに敵対関係になってしまうかもしれない。
世の中にはうわさ話や陰口が好きな人たちがいるものである。酒の席で絶えずその場にいない人のことを悪く言ったり、面白おかしく言ったりして、その場にいる人たちだけで盛り上がっている人たち。あの人たちは何をしているのかと言えば、二つのことをしているらしい。
ひとつは嫌いな人間の悪口を言って、憂さを晴らすこと。
もうひとつは、その場にいない人のことを皆で嫌いあうことによって、その人たちだけで、ある種の連帯感、仲間意識みたいなものを感じあうこと。
それが、彼らの心の糧なのだろう。しかし、そんなことをしたところで、休みの国の歌うところの「追放の歌」が聞こえてくるばかりではないか。私はこういう人たちに対して、先の言葉を言い換えて、こう言おう。


「敵の敵は悪友じゃ。(`ω′)!
そがあなもん、得んでもええよ。」


陰口によって得た友は、陰口によって去っていく。呉越同舟。


結論として、私は思うのだが、「愛憎の激しい人」というのは、「愛を生産する能力のない人」なのではあるまいか。世の中には愛を生産する能力のない人がいる。しかし、そういう人でも愛が欲しい。そのとき、その人はどうしたらいいのだろうか。
そこで、最初の話に戻ってみる。元でなしでお金を作るのは大変なことだが、借金をしてお金を用意するのは簡単なことだった。それは愛においても同じことなのである。恐ろしいことに、愛は、憎しみを質入することによって、簡単に前借することが出来るのである。しかし、借金をして預金をしても意味がないように、憎悪と引き換えにして愛を借り入れたところで、全体的に見たら何の価値があるのだろうか。その場は凌げても、長い目で見たら、金利の差で借金(憎悪)を膨らませるばかりではないだろうか。そして、世の中には質流れした憎悪が溢れるというわけだ。また、そんな習慣が行き過ぎて、好きな人の愛を手に入れるために、第三者への憎悪で得た愛を見せびらかして何とも思わないようになったら、もはや、詐欺師が架空の見せ金で資産家から多額の金を騙し取るのと何が違うのだろうか。


キリストが言っている。
「あなたたちも聞いているように、『隣人を愛せ、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛しなさい。自分を迫害するもののために祈りなさい。あなたたちの点の父の異なる為に。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる。自分を愛してくれる者を愛したところで、あなたたちにどんな報いがあるというのだろうか。そんなことは徴税人でもやっている。自分の兄弟だけに挨拶をしたからと言って、どんな優れたことをしたことになるだろう。異邦人でも同じことをやっている。だから、あなたたちの天の父が完全であられるように、あなたたちも完全なものになりなさい。」
(マタイによる福音書 5 43-48)


「汝、敵を愛せよ」とはどういう意味か。
それは、あなた自身の「愛の総生産量」を考えなさいということだ。
借金(憎悪)で借り入れた金(愛)をいくら預金したところで、それはあってないものである。