○道徳というものについて考えている。形式的な道徳を否定するのが、道徳的な人と反道徳的な人の意外な共通点である。既存の堅苦しい道徳に疑問を感じた人が取り得る認識は次の2つのうちのどちらかである。
1.道徳なんて守る必要はない。
2.道徳なんて守るまでもない。
両者ともに形式的な道徳を否定している点では同じである。違うのは、道徳の本質を理解しているかどうかである。後者が道徳の形骸化を否定しているだけであるのに対して、前者は道徳そのものを否定している。しかし、道徳を理解しないでその形式を否定する人は、かわりに社交術や処世術を身に付けなければならなくなるから、結局息苦しい思いから抜け出ことは出来ないだろう。例えば、「二枚舌」という不道徳な行為を押し通していると、いずれは相応の社交術や処世術で対処しなければならなくなるだろう。

○わざとらしさは実践道徳における心の補助輪である。それ自体が求めるものではないが、それなしに道徳の実践を始めるのは難しい。

○礼儀作法を重んじる人は2種類ある。
1.礼儀正しい人
2.礼儀作法にうるさい人
前者は礼儀の表現者であり、後者は礼儀の評論家である。
2.について。
「論語読みの論語知らず」ということはあるのだろう。
「彼らの言うことは皆聞きなさい。しかし、彼らのようであってはならない。」
例えば、「犬食い」は差別用語である。そういった表現を好んで使いたがる人、すなわち礼儀作法にうるさい人には、しばしば人間軽視、ある種の差別的な憎念が感じられる。キリスト以外、誰もそれを指摘しないが。

○某公共広告機構のマナーの標語に意地の悪さを感じる。

○MOTTAINAIの次はMITTOMONAIが流行るのではないか。

○恥は2種類ある。
1.道徳心に基づく恥
2.世間体に基づく恥
道徳心は廃れても、世間体は廃れないから、実は恥も廃れない。「恥を知れ!」は1.の恥を知らない人に対して向けられる。

○自慢は徳の漏電。
○夢の中で殺人を犯してしまったら、道徳上殺人だろうか。ある夜、道徳的なAさんは夢の中で殺人を犯してしまった。目が覚めた後、Aさんは自分が夢の中で殺人を犯したことを懺悔した。ある夜、道徳的ではないBさんは夢の中で殺人を犯してしまった。目が覚めた後、Bさんは自分が殺人犯ではなかったことに安心した。道徳的な人だけが道徳的な殺人を自供する。犯罪者を収監するのが今後の再犯を防止するためだとしたら、夢の中で犯罪を犯した人間は収監すべきだろうか。
○親を選ぶことは出来ないが、親孝行を選ぶことは出来る。
○感心されるのは知育か体育のおかげ。感謝されるのは徳育のおかげ。
○涙ぐましい話は、徳への入り口である。(話し手にとっての徳ではなく、聞き手にとっての徳である。)

○顔に化粧美人があるように、心にも化粧美人がある。いつも親切なあの人にたまたま匿名で接したら、心の化粧美人だったことが判明したということはあり得る。
○道徳は面倒くさいが健康に良い。それは背筋を伸ばすようなものである。「罪を憎んで人を憎まず」は健康に良い。特に人口の多い都会においては。

○迷惑をかけるために、謝る準備をしている人がいる。道徳がエゴの道具に成り果てている。
○反道徳はすぐに飽きる。
○いわゆるおりこうさんとは徳のない人である。