○生命と精神の違いについて。植物には生命はあるが精神がない。動物には生命と精神がある。人間には生命と精神と理性がある。
○知的生命の系譜は、換骨奪胎によって。
○持っている(知っている)人が偉いのではなく、見出した人が偉いのである。例えば、「平和は大切であるという考え」を持っている人が偉いのではなく、その考えを見出した人が偉いのである。「万有引力の法則」を知っている人が、みなニュートンのように偉いわけではない。社会が成熟してくると、持っている人は増えてくるが、それで見出す人が増えるわけではない。すなわち、既存の知識の流通量は増えても、知識の種類が増えるわけではない。
○凡人の特徴:
1.変人を自称する。
2.変人と呼ばれて喜ぶ。
○知的財産の盗用(パクリ)は、産地偽装ならぬ生産者偽装である。
○人の品性は、その人の疑い方に表れる。
○「すごい人」とは、「すごくなかった頃のことを他人に知られていない人」である。
○批評されるということは、批評家タイプに見込まれているということである。
○臆病は勇敢の証。勇敢は臆病の証。戦場では、軍隊の最前線にいる人たちが一番臆病に見えるだろう。弾が目の前を飛び交っている場所で戦っているのだから。戦争においては、軍隊の最後部にいる人たちが一番勇敢に見えるだろう。一番安全な場所で静観しているのだから。
○匿名のあなたが本来のあなたである。「それがすなわち汝」(リグ・ヴェーダ)
○タブーを解明したら、この世においてすることがなくなるような気がする。
○愛国主義が排斥主義に変わりやすい点は、御国自慢の場合のそれに似ている。
○歴史書の総覧が、本来あるべき歴史書であろう。誤りのない歴史書はあり得るが、すべてを言い尽くした歴史書はない。
○精神医学を信じない私に精神病はない。精神病の最初の保菌者は精神科医である。精神病はすべて院内感染で広まった。言い出した人間が流行らせたのだ。
○ドライぶるのは、自分のウェット感を隠したいから。湿っぽい人もドライな人も湿っぽさに耐性がないという点においては同レベルである。ドライはウェットの裏返しである。
○素人による涙ぐましい話は銀杏(ぎんなん)に似ている。それを食するためには、外皮を剥かなければならない。銀杏において、食するのは種子であって、臭い外皮ではない。そこを、自称ドライ派のあなたは勘違いしていないだろうか。あの臭いやつを食べるわけではないのだよ。ところで、あの臭い外皮を自分で剥くのが面倒だという人のためには、プロによる「悲劇」という名の加工品も売られている。
○力ずくで怒らせることは出来る。力ずくで泣かせることは出来る。力ずくで笑わせることは出来ない。
○影で理屈をこねるのは、理屈が体格に依存しないからではなかろうか。
○Aさんが「Bさんがこれこれしてくれたら、私は救われるのだが」と思うとき、その救いは世俗的なものである。
○大したことがない人の口癖:「あんなの大したことがないよ。」
○悩んだことがないのと、もう悩むことがないのは、まったく別の話である。悩んだことがないのは、いまだに悩むことがないからであり、もう悩むことがないのは、悩みつ尽くしたからである。悩み尽くした人は、もう悩むことがない。それが安らぎ(ニルヴァーナ)というものであろう。
○人は気付くことで理論上の悟りを得る。人は飽きることで実践上の悟りを得る。
○月並みな悩みごとに遭うと、物足りないと思う。自分のものであれ、他人のものであれ。
○魅力とは、他人に「所有したい」と思わせるあなたの一部である。それがあなたの体の一部でなければ、それはあなたから奪い取られそうになり、それがあなたの体の一部であれば、あなた自身が奪い取られそうになる。自分の魅力が大切ならば、あまり他人にそれを見せびらかさないことである。
○困っていない人の理論は、困っている人の理論に対して常に勝る。しかし、それは当人以外に適用することが出来ない。
○理屈は、他人に進み得る道を示しはするが、必ずしもその方向に動かすことは出来ない。屁理屈は思ったほど人を追い立てることが出来ない。
○神秘主義とは日常生活の中に真理を見出すことを目的とした生き方である。
○暴力は攻撃力にはなるが、守備力にはならない。暴力は不意に対して案外無力である。
○例え話には2つの評価基準がある。例え方のうまさと、例えている内容である。例え話はどちらが欠けても面白くない。
○気持ち悪い人は2種類ある。
1.容姿の醜い気持ち悪い人。
2.容姿の美しい気持ち悪い人。
前者はすぐに気付くが、後者はなかなか気が付かない。他人の印象についての気持ちの良し悪しは、それが総合的かつ生理的な判断である以上、容姿の美醜を切り離して考えることが難しいからであろう。
○この世に唯一つしかないものが、この世には無数にある。希少価値とは何か。
○いろんな人に同じ間違いをさせるのは、制度が間違っているから。
○ある人が考えたことではなくてただ体験を語るのは、語り手か聞き手のどちらかの考えが足りないからである。
○嘘を見破るよりも嘘をつかせない方が難しく重要である。
○独り言が多いのは、言論における需要と供給のバランスが取れていないから。語るべきことは多いが、聞く人は少ない。
○才能のない人が才能のある人を急き立てる。愛なのか、エゴなのか。
才能のある人が才能のない人を急き立てる。愛なのか、エゴなのか。
○見えない敵は大きく、見ない敵は小さい。
○才能を間引く。才能はある程度は間引かなければ伸びない。色々な才能を伸ばそうとしてはいけない。多芸は無芸。しかし間引きすぎると、今度は強風になぎ倒される。適度な数の才能で自分の才能を構造化すること。
○ある中年男性が回想して言う:「私は、若い頃、いつもいつも「成功してやる」と思ってました。何年もそう思ってました。しかし、ふと気がついたんです。「何年も成功してやると思い続けることは、結局失敗してる」んじゃないかと。それは失敗という結果の受け取りを保留し続けているだけなんじゃないかと。成功した人はもう「成功してやる」とは思わないでしょうから。」
○目標の終了条件を確認しなければ、失敗することも出来ない。終わりなき目標は危険である。
○魅力とエゴイズムの強い関係。魅力的な人はどこかエゴイスティックである。
○行って喜ぶあの世が天国。行って困るあの世が地獄。あの世に天国と地獄の隔てのないこと。あの世には天国にいる人と地獄にいる人が混在している。その様子はまさにこの世にいるかのようである。
○「ポジティヴにクリエイティヴなし」と言ったら言い過ぎだろうか。
「夢を見るのは悩みごとが多いから。」(コヘレトの言葉 5-2)
夢は悩みから。クリエイティヴな事柄に限って言えば、ポジティヴは常にネガティヴの模倣者に過ぎない。
○冷静であることと残忍であることの類似性。
○勇気を想像するのに勇気はいらないが、勇気を出すのには勇気がいる。まず小さな勇気を出し、その小さな勇気でさらに大きな勇気を引き出すのである。勇気がなければ、勇気は引き出せない。まるでブートストラップである。
○「悲しかった話」をうれしそうに聞かせようとする人。他人の涙ぐましい話や貧乏体験が聞くに値するかどうかは、そこに社会問題との関わりがあるかどうかで決まる。個人的な都合による苦労話は、他人事として聞くことはできても、代わりに対処することが出来ない。
○肉体について:肉体は人間が(社会制度によらず)所有している唯一の自然物である。肉体美は人間が所有している唯一の自然美である。容姿の美しい人がそれを利用して生活している場合、その人は自立していると言えるのだろうか。なるほど、たしかにその容姿の美しさは他人から借りてきたものではないが。
○要領のよい人や調子のよい人にセンスがないのを見ると、さもありなんと思う。要領のよさとは労せずして価値を得ることだが、それで新たな価値観が得られるわけではない。ピカソの絵が買えるほどの大金持ちになった人が、肝心のその絵のどこがよいのかが分からず首をひねっているのは、さもありなんと思う。
○私にとって重要な問題が、周囲の人にとってはどうでもよいということはありえる。それは次の2つのうちのどちらかである。
1.私だけの問題。
2.人間共通の問題。
私だけの問題は、私以外の人にとってはどうでもよい。人間共通の問題は、ほとんどの人が深刻に捉えることはない。例えば、「死」は人間共通の問題だが、すべての人が日常的に深刻に捉えるということはない。
○ある地方に、Aさん、Bさんという2人の政治家がいた。あるとき、その地方で地元の選挙をすることになった。Aさんは地元に橋を架け、道路を引くことを主張し、Bさんはエイズ問題に取り組むことを訴えた。その結果、Aさんは当選し、Bさんは落選した。その地方にはエイズ患者がほとんどいなかったのである。ある人の取り組む問題が普遍的であればあるほど、周囲の人たちからの理解や協力は得られにくくなる。
○受け売りが多い人に対して:
言っていることが分からないのではなくて、言いたいことが分からないのだ。
○どんな感動的な音楽もいずれは聴き飽きる。どんな非凡な創作力でも、凡庸な聴力にいずれ追いつかれる。
○永遠とは何かという議論において、以下の2つがしばしば言い争われる。
1.「未来永劫続くもの」
2.「無時間性」
しかし、世間の人たちにとって、それらはどうでもよいものである。世間の人たちが求める永遠とは、以下のものである。
「(私にとって)自分の寿命よりも長持ちするもの」
しかし、これは正確には「永遠」というよりは、「半永遠(=半永久)」である。世間の多くの人たちが真の永遠について思い至らないのは、自分の周りを半永久的なもので取り囲んでいるからだろう。彼らは、自分が生きている間はそれで事足りていると思っているのだ。
○完全犯罪とは、「完全にバレない犯罪」ではなくて、「バレたときに完全な言い逃れが出来る犯罪」である。「それは知りませんでした」、「そんなことならしなかったのですが・・・」
○ある人は言う。
「私がやったという証拠はあるのですか?」
「私がやったという証拠」は常にあり得るから、それは完全な自己弁護とは言えない。それに対して、「私がやろうと思ってやったという証拠」はないのが普通である。案外、完全犯罪は不完全犯罪よりも身近である。
○極めて恵まれない境遇と、極めて恵まれた取り得を併せ持つ人。その人が自分の恵まれた取り得で自分の恵まれない境遇を埋めようとする。それは造作もないことなので、その人は誰にも止められなくなる。その人は強気な個人主義者になるだろう。
○Aというものをすでに手に入れた人が、「Aなんて必要ないよ」と言うとき、それは本当だろうか。
○思索家はスポーツ選手よりは釣り人に似ている。活動中の退屈な様子ではなく、活動後の成果で評価される。していることが認められるのではなく、したことが認められるのだ。スポーツ選手が死後になって認められることは滅多にないが、思索家が死後に認められることは珍しくない。
○自意識過剰な人に欠けているのは自覚である。
○完全犯罪とは何か?例えば、購入意志のない立ち読み。あなたに購入意志があるかどうかはあなたにしか分からない。
○他人の肩書きには感心しても感謝はしないものである。
○コンプレックスは、克服するのではなくて、忘れなさい。
○被害を大げさに説明すると言う加害手法。
○いやらしいのではなくて、慣れていないのだ。いや、慣れていないから、いやらしいのか。
○生物に性別があるように、観念にも性別があるらしい。愛、恋、嘘、偽善、正義、いずれも、男性のそれと女性のそれは別物であるようである。
○邪推に邪推で勝負する。勝った方が負けなのだ。
○忍耐力は優秀さに比例しない。
○ある人は言う。「私みたいな人は他にいない。」唯一性と自惚れの関係。
○物理的な自由と心理的な自由について:あるところにAさんというケチな人がいた。ある日、Aさんは家を建てることになった。しかし、Aさんはケチだったので、天井の高さを自分の背丈と同じにしてしまった。Aさんが出来上がった家に住んでみると、物理的には何の不自由もなかったが、心理的には不自由で仕方がなかった。自由とは何か。余裕は、物理的にではなく、心理的に測ることが出来る。
○「多くの人に愛される魅力」は計算の賜物かもしれない。
○自分の揀択(けんじゃく)に理屈を付けるのが哲学。越えるのが宗教。
○「不器用を自称する人は器用な人である」という指摘はあるだろう。不器用を自称する人の主張は不器用な自己宣伝と見られるだろう。しかし、やらなければならないことが複数あって、そのうち見返りのないことを最優先している人はそれ以外のことについて不器用にならざるを得ないだろう。
○自分にとって一番大切な仕事がうまく行っているとき、二番目以降に大切な仕事はうまく行かなくなるものである。特に一番大切な仕事が無報酬である場合、愚痴はむしろ好調の証であり得る。
○受身での勇気はそうでない場合の勇気と何が違うのだろうか。綱渡りをするには勇気と能力が必要であるのに対して、手術を受けるには勇気は必要だが能力は必要ない。前者は勇気を努力に、努力を能力に変えることが出来るが、後者はそうすることが出来ない。自力の勇気と他力の勇気。
○「涙の訴え」が疎まれるのは、涙の原因が「私を選んでください」にあるからなのだろう。「この子達の未来を切り開かなければなりません。ですから、どうかこの私に清き一票を・・・。」「あなたは幸福にならなければなりません。ですから、どうかこの私と・・・。」
○どうでもよいことをじっくり観察することで、どうでもよいわけではないことを発見する。
○数奇な人生を送ってきた人が、必ずしも数奇な言葉でそれを語れるとは限らない。平凡な言葉とよくある言い回しの月並みな組み合わせから、数奇な人生が垣間見れることもある。
○いわゆる精神レベルは気付きの度合いによって測られる。
○ルールが不平等ではゲームは成り立たない。公正なルールは自然に成立する人工物である。
○社会問題についての議論は、吠える人ほどその問題とは関係がない。
○博学であり、考え深く、誠実な人が自分の考えを述べるとき、その考えは理解しかねるだろう。何故ならば、博学で多くの他人の考えを知っている彼がそれらと被らない自分の考えを誠実に述べるとき、それはおそらく極端に辺鄙なものであろうから。単に博学なだけの人ならば、その博学を自分の考えのように披露することしか出来ないだろう。そしてそれはその考えを知らない人にとっては傾聴に値するだろう。あるいは単に考え深いだけならば、自力で思いついた既知の考えを述べることにしかならないだろう。そしてそれはその考えを知っている人の失笑を買うだろう。
○他人にお願いをしておいて、あとでそれをしてくれたかどうかを確認するのは、結局命令するのと同じことではないだろうか。「今度の選挙はよかったら○○党に入れてちょうだいね。」「今日の選挙、○○党に入れてくれた?」
○自分探しの代用行為としての友達探し。友達が際限なく増え続けていくのは、いつまで経っても自分探しが終わらないから。
○悩みのスケーラビリティー。色々なことに悩んだことがある人ほど色々な人の悩みに応じることができる。
○他人のどうでもよい話に対して、誠実そうに話を聞く人と、どうでもよさそうに聞く人では、どちらが誠実なのだろうか。
○騙される事柄と信じる事柄は同じものでありえる。
○「あの人と私を一緒にしないでください。あの人の場合はAですが、私の場合はA’です。」それは物理的な違いであって、心理的には同じだと言っているのだが。
○事実は壊れるか。「彼女は私を愛している」という現在の事実は壊れる。「彼女が私を愛していた」という過去の事実は壊れない。
○和風セレブ。旅館の布団の下にチップを置くこと。「あれ、これ、何かしらね。」「チップじゃないかしら。」「あらそう。もらっていいのかしら。」
○あるところにAさんというスポーツ選手がいた。A選手は容姿はよくなかったが、スポーツ選手としては最高に優秀だった。A選手はその競技姿のカッコよさから人気があった。
ところで、別のあるところに、Bさんという人がいた。Bさんは何のとりえもなかったが、容姿がA選手にそっくりだった。それでBさんはしばしば以下のように言っていた。「僕ってA選手に似てかっこいいでしょ。」
あるところにCさんというノーベル物理学者がいた。C博士は趣味で人生論を書いていた。その人生論は味わい深く、なかなか人気があった。
ところで、別のあるところにDさんという人がいた。Dさんは何のとりえもなかったが、趣味で人生論を書いていた。ある日、DさんがC博士が書いた人生論を読んでいると、自分の書いたものによく似た話を見つけた。そこでDさんは言った。「僕はノーベル賞級の作家なのかもしれない。」
高齢層の恋愛はどんなものだろうか。
若い頃に比べると同じ精神レベルで付き合える人は見つけにくいのではないだろうか。
長い歳月の中で相当に差が開いているだろうから。
いや、むしろ、だからこそ、お互いにないところを深く補い合えるのだろうか。
○好き嫌いに知恵がついて愛憎になるのだろうか。赤ん坊に嫌われることはあっても、憎まれることはない。
○百の再発見は一つの発見に如かず。