○「許す」とはどういうことだろうか。思うに、「許す」とは「許さない」という判断を取り消すことではないか。(「許さない」を取り消すのが、「許す」ということ。)「許す」という積極的な行為があるのではなくて、ただ「許さない」という積極的な行為の取り消しがあるだけなのだ。であれば、人が他人を「許す」ためには、その前に「許さない」がなければならない。そう考えてみると、私はあまり人を許したことがない。そもそも、他人を「許す」以前に、まず「許さない」と思わないからだ。「許さない」がないのだから、「やっぱり許してやる」もない。例えば、自分が電車に乗ろうとしていると、他人が走ってきてぶつかったとする。人によっては、「許さない」と思うのかもしれないが、私はだいたいそう思わない。他人がぶつかってくると、私はきょとんとする。わざわざ「許さない」とも「許す」とも思わない。そう考えてみると、「許せない」は以下の2種類がある。
1.自分が過去に発令した「許さない」を、いまさら取り消すことが出来ない。
2.そもそも「許さない」と思っていないのだから、「許す」ことも出来ない。

キリストは「七の七十倍までも許しなさい」(マタイによる福音書 18 22)と言った。しかし、これは一種の方便であって、「491回目以降は許さなくてもよい」ということではない。回数の問題ではなく、本質的に「許す」必要は最初からないのだ。
○私は他人に許しを得なければならなくなることがある。そのとき、「許してください」と言いながら、相手によっては「許してやりなさい」とも言いたくなることがある。「許してください」は私のために。「許してやりなさい」は相手のために。しかし、私は立場上後者のことを相手に言えない。(「(あなたは)私を許してやりなさい」は説得力がない。)では、もし自分が第三者ならば、そのように言うだろうか。(「(あなたは)彼を許してやりなさい」は説得力がある。)しかし、第三者の立場からでは、その人が許さないことのまずさに気付くことはあまりない。

○読まれていないうちに書いておきたいことがある。人間は生まれたとき、誰でも「他人を許さなくてもよい座」に着いている。しかし、多かれ少なかれ、日が経つにつれて、その座を滑り落ちていく。自分が他人に許しを乞う立場に立たざるを得なくなるからだ。(自分が他人に許しを乞うておいて、他人を許さないわけには行かない。)人生において、成功を重ね続けると言うことは、「他人を許さなくてもよい座」に居座り続けるということだ。それ故に、いつまでも成功者であり続ける人たちは、いつまでも他人を許すスキルを身につけることができない。

○許さない人に許してもらうのは至難の業である。困っていない人に得をさせるのも至難の業である。それらはラクダが針の穴を通るよりも難しい。
○「自分の方が絶対に正しい」と強く主張する人の方が間違っていた場合のために許しは存在する。逆に言えば、彼の方が正しかった場合には許しは何の役にも立たない。「そうれ見ろ、だから言ったじゃないか。」許さない人を許すことは簡単だが、許さない人に許させることは難しい。
○完全な人が、完全に他人を許さないのは、完全な人の、完全な欠点である。