批評家とは自分でものを考えることが出来ない人である。自分でものを考えることが出来ない人は、誰も考えたことのないことを考えることが出来ない。それは当人にとって、致命的なことである。しかし、自分でものを考えることが出来ない人でも誰も考えたことのないことを考えることが出来るただひとつの例外的な手法がある。それは他人が考えたことの逆を考えるという手法である。ある人が「AはBである」と言ったら、「AはBではない」と考えるのである。後者はたいていの場合、意味不明であるか、間違っているのが普通であるが、場合によって、それらしく聞こえる場合もある。そこでそれを自分の考えだといって提唱するのである。世の中にはそういったやり方で自分の考えを進める人がいる。

彼らは常に考える対象を求めている。肉食動物が獲物を捜し求めるように。そして、良い考えに出会うと、さっそくそれをひっくり返してみる。そうして、ひっくり返した考えの中から、意味不明なものや、間違っているものを取り除いて、それを自分の考えだという。しかし、その考えがあからさまに元ネタの正反対であれば、それを素直に主張するのは格好が悪い。結局は二番煎じの印象を免れないからである。そこで、編み出されるのが、批判する、噛み付く、対抗するというスタイルである。「私はあの欺瞞に満ちた考えに我慢がならず、この考えを提唱するのだ」と語気強く語っておけば、それなりに格好がつくのである。しかし、結局のところ、それは自分で考えることが出来ない人が、他人の考えに寄生して生き延びているに過ぎない。批評家という生き方の歴史は古い。本屋で書籍を眺めてみても、ニーチェからよくある便乗本までこの手法で書き上げられた書籍は枚挙に暇がない。

批評の仕事は創造が出来ない人たちのために残しておきなさい。創造力に自信のある人はそれに触れてはならない。