私は小さい頃から世間において疑問にいろいろ持っていることがある。ひとつはタブーである。殺人や盗みがタブーなのは分かるのだが、中には取り立てて問題と言えるほどのことでもないことが意外にタブー視されていることがある。例えば、弱音、涙ぐましい話、貧乏話、苦労話などの類がそうではないだろうか。これらの話には、ある種の臭みがあるのは分かるのだが、冷静に考えてみれば、憎悪の感情を込めて糾弾するほどのことではない。しかし、世の中には、これらの話を聞いただけで、敏感に反応し、反射的に行き過ぎた攻撃に出る者がいる。攻撃的な態度で、言論を封じ込めようとするのである。これは何故だろうか。この文章では、この問題について考えたい。



私は以前から特に弱音について書いてみたいと思っていた。弱音について考えるべき点は以下の2点である。
1.ある人は何故弱音を吐くのか。
2.ある人は何故自分や他人が弱音を吐くのが許せないのか。
ここで、1.についてはいろいろな人が書いているので、私は2.について書いてみたい。世の中には弱音を吐く人がいるものである。すぐに疲れたとか、辞めたいとか言う人である。そういう人の心理については、書籍などであれこれと語られている。しかし、たいていの場合は、その本質を理解していない他者の立場での表面的な否定で終わっているものが少なくない。その一方で、世の中には、この弱音を吐く人を極端に毛嫌いする人もいる。他人が弱音を吐くのを見ると、極端な嫌悪感を示す人である。


一般に、ある人が極端にひどい弱音を吐いたり、それを他人に一方的に押し付けたりしてくれば、誰でもそれに対して嫌悪感を抱くものである。中には、それに対して反撃を加える者もいたとしてもおかしくはない。だが、今、ここで言わんとしているのは、そういう一般的なケースではなくて、その極端なケースである。世の中には、弱音の程度とは関係なく、少しでも弱音らしいものを嗅ぎつけるとと、それに敏感に反応して、その弱音を吐く者に対して見境なく嫌味や皮肉を言って攻撃を仕掛ける人が少なからずいる。


個人的な話ではあるが、私は、昔から、弱音を吐く人とそれを嫌う人では、後者の方が不可解だった。若い頃、私は、自分の何でもない発言に対して、その後者の人から急に不意打ちを食らって、しばしば面食らうことがあった。数人の知人と雑談をしていると、私の適当な発言に対して、その中のある人から、取って返すように、何か過剰な反応が帰ってくるのである。私からすれば何ということはない話なのだが、その人に言わせると、それは「弱音」であって、それを言うのは「許せないこと」なのである。それは、弱音と言われたらそうかもしれないが、たいした意味はなく、せいぜい雑談程度の話なのである。私からすれば、そんなに過剰に反応をしなくてもよいのではないかと思うのだが、その人に言わせると、それは大問題なのだそうである。その人は「許せない」と言うのだが、こちらからすれば、何故その人に許可を貰わなければならないのかと思うわけである。若い頃、私は上のようなことがある度に、その対処に困ってしまったものである。


その後、私はこの不可解な心理について、ときどき考えていた。そして、大分経ったある日、私はようやくその正体に気が付いた。要するに、それは一種のアレルギー反応である。例えば、蕎麦アレルギーの人が、一粒でも蕎麦粒を食べると、全身に蕁麻疹か何かが出るというのと同じことである。世の中には弱音と言うものに対して、極端に拒絶反応を示す人がいる。その人は、弱音らしきものに出会うと、それがどんなに些細なことであろうと、過剰に反応する。そして、それから逃れようとして、あわてて極端に身構えたりする。要するに、拒絶反応が出るのだろう。そして、相手のことも考えないで、あわてて過激な言動に出て、それを押し返そうとする。要するに、防御反応が働いてしまうのだろう。私は、ここで、それを「弱音アレルギー」と名付けよう。世の中には、この弱音アレルギーを持っている人が少なからずいるのではないだろうか。では、この弱音アレルギーというのは、どんな人が持っているのだろうか。



弱音と言うことについて考えてみるとき、世の中には2種類の人間がいる。
A.弱音を吐く人
B.弱音を吐かない人
弱音を吐かない人は2種類ある。
B-1.弱音を吐きたくても吐けない人
B-2.弱音を吐く必要のない人



弱音を吐かない人のうち、まず、B-1.について考えてみよう。弱音を吐きたくても吐けない人とはどんな人だろうか。例えば、以下のような人が思い浮かぶ。
B-1-a.小さい頃から愛情を得られないで育てられた人。弱音を聞いてもらえなかった人。
B-1-b.小さい頃から厳格に育てられた人。弱音を吐かせてもらえなかった人。



B-1-a.について。
個人的に思い当たるのは、親に弱音を聞いてもらえないで育った人である。すなわち、親から愛されないで育った人である。このタイプの人は弱音アレルギーになりやすいのではないだろうか。私が過去に知り合った女性には、何故か、三人きょうだいで、上と下に男の兄弟を持つ人が多かった。その女性たちがそろって言うのが、以下の一言だ。
「私は親から愛されずに育った。兄は大事にされ、弟は可愛がられるが、私はいつもほったらかしだった。」
そして、彼女たちはこう言う。
「だから、私は弱音を吐かないで、一人で頑張ってやってきた。もう親の愛はいらない。」
こういう境遇で育った人は、弱音というものを嫌がることが多いようだ。


子供はすぐ親に弱音を吐く。そうすれば、親が聞いてくれると思っているからだ。そして、実際、聞いてもらえることが多いだろう。しかし、世の中には、この弱音を吐いても、親にまったく聞いてもらえなかった人もいる。そして、そういう人の中には、親に対する恨みや不公平感を、弱音に転嫁して、それに対して深い憎しみを覚えている人が少なからずいるのではなかろうか。そして、そういう人は、大人になって、会社の同僚などが弱音を吐くのを聞いたりすると、極端な嫌悪感を覚えたりするのではなかろうか。そういうとき、その人は内心でこう思う。
「この人は、弱音を吐けば、聞いてもらえると思っているのか。私は親に自分の弱音を聞いてもらえなかったのに、何故、この人の弱音を聞いてやらなければならないのか。」
もしかしたら、その人は弟だけが可愛がってもらっていた過去を思い出しているのかもしれない。そして、それがただの甘えであることを自分と相手に証明しようとする。その人はこう言い返す。
「そんなことを言って、同情してもらいたいわけ?」
この人の言っていることはある意味で正しい。しかし、それは理論上の話であって、残念ながら、現実的には、あまり適切な返答ではない。


これと同じことは「助け合い」にもいえる。「助け合い」に対する考え方はふたつある。
1.困ったときはお互い様。困ったときはお互いに助け合いましょう。
2.お互いに困ることがあっても、助け合うことはやめましょう。あなたが困っても、私は助けないし、私が困っても、あなたに助けてもらう必要はありません。
どちらも、その考え方に矛盾がないという点において間違いではないが、人生というものを長い目で見ると、後者の考え方は机上の理論であって、現実的ではないように思う。もし、それが、スポーツのような限られた状況において適用されるのであれば問題はないのかもしれないが、人生のような長丁場において、それと同じ考え方は適用できないのではなかろうか。例えば、ある人が、長い人生において、上の考えを人生のポリシーとして、その道を突き進んでいくとどうなるだろうか。私は、その人は個人主義者にならざるを得ないと思う。社会問題には何の関心も持たず、ただひたすら自分の成功、出世を追いかけるしかなくなるのではなかろうか。何故ならば、他人と助け合わないで出来ることは、個人的なことに限られるからだ。そして、それを一人で達成しようと思ったら、その人は個人的な努力を無理やり積み重ねるしかなくなるのではなかろうか。私は、その人は完璧主義者にならざるをえないように思う。それはしんどかろう。そして、人間が完璧になることはないから、最後にその人を待っているのは人生の敗北だろう。そう考えてみると、私はこう思う。もし、その人がもう大人であって、親から自立して暮らしているのであれば、一度、自分の人生を見直して、負わなくてもよい荷は一度降ろしたほうがいいのではなかろうか。それが出来たら、その人は、次に、弱音アレルギーの克服を新しい人生の目標にしてはどうか。その方が、その人自身、ずっと幸せになれるような気がするのだが。



B-1-b.について。
例えば、小さい頃から弱音を吐かせてもらえないで育てられた人の中には、このアレルギーを持っている人が少なからずいるのではないだろうか。例えば、しつけの厳しい家庭で育てられた人。例えば、小さい頃から弱音を吐くと、親にぶん殴られて、力づくで黙らされて育った人。私は他人の家庭環境についてはよく知らないが、そういう環境で育てられた人の中には、親の意に反して、結局、他人の顔色を窺うだけの人になってしまった人はけっこういるのではないだろうか。そういう人は、意識の自分は親に押し付けられたものを一生懸命に守ろうとするのだが、無意識の自分はいまだにそれに同意しておらず、心の中にジレンマを抱えているのではないだろうか。そして、そういう人は、表向きは弱音は吐かないという態度を通していても、内心ではいまだに弱音を吐いてみたい衝動に駆られているのではないだろうか。そうしたときに、その人の横で、そういうトラウマのない人が能天気に弱音を吐くと、その人は、それに対して極端な嫌悪感を覚えたり、拒絶反応を示したりしてしまうのではないだろうか。多分、その人は「私は弱音を吐かないで頑張っているのに、何故お前は弱音を吐くのだ。」と言いたいのかもしれない。だが、冷静に考えてみると、それは「弱音を吐けない人の事情」であって、「弱音を吐く人の事情」ではないだろう。本人もそれが分かっているから、それをストレートに言い表せないのではないだろうか。それでも何か言おうとすると、結局は、嫌味や皮肉のような屈折した言い方しか出来なくなるのではないだろうか。私はどうもそんな気がするのだが。もしそうだとした場合、その人にとって、本当の問題は何だろうか。それは、
「何故、世の中には、弱音を吐く人がいるのか?彼らを黙らせるためにはどうしたらいいのか?」
ではなくて、
「何故、私は、弱音を吐く人を許せないのだろうか?そのために私はどうしたらいいのか?」
ではないだろうか。
人間というものは、自分を克服出来ないうちは、他人を克服することは出来ないだろう。自分を克服できないものが、他人を征服しようとするのだ。


参考:
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
And why beholdest thou the mote that is in thy brother's eye, but perceivest not the beam that is in thine own eye?
自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向って、『さあ、あなたの目にあるおが屑をとらせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすればはっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
Either how canst thou say to thy brother, Brother, let me pull out the mote that is in thine eye, when thou thyself beholdest not the beam that is in thine own eye? Thou hypocrite, cast out first the beam out of thine own eye, and then shalt thou see clearly to pull out the mote that is in thy brother's eye.
(ルカによる福音書 6 41-42)



弱音を吐く必要のない人は2種類ある。
B-2-a.弱音を吐かなくてもよいぐらい心の強い人。
B-2-b.弱音をはかなくてもよいぐらいの恵まれた環境にいる人。
上の人たちの具体的な例を挙げて言うならば、
B-2-a.は、例えば、仏陀やイエスのように悟った人。
B-2-b.は、例えば、美人や金持ちの人。美人は「なんで私はモテないの?」という弱音を吐いたりはしない。
この両者は、弱音を吐かないという点において、一見似ているけれども、中身はまったくの別物である。B-2-b.は弱音を吐かないでいられる状況が限定されている。美人で貧しい人が、自分が貧しいことに対して弱音を吐かないとは限らないし、金持ちで容姿の醜い人が、自分の容姿が醜いことに対して弱音を吐かないとは限らない。あるいは、逆に、詐欺師やストーカーに狙われて、別の弱音を吐くかもしれない。あるいは、美人の人が交通事故でその美貌を失うということはあるし、金持ちの人が投資の失敗で全財産を失うということもある。結局のところ、ある人があらゆる局面において、弱音を吐かないでいられるかどうかは、手持ちのカードによるのではなくて、B-2-a.の人のように、その人自身の心の強さによるのだと思う。



両者はそれぞれ弱音を吐く必要がないと言う点において共通しているが、その中で、B-1-b.の人の中には、潜在的に弱音アレルギーの人はいるように思う。彼らのすべてではないだろうけれども、一部の人は、弱い立場の人の弱音を嫌う。極端な例になると、ひどく恐れたり、憎んだりする人はいるのではないだろうか。例えば、こういうことはあるのではなかろうか。ある会社に、Aさん、Bさんという2人の社員がいた。ある日、二人が雑談をしていた。そのとき、Aさんが話の流れの中でこう言った。
「実は俺の家はすごく貧しかったんだ。それで・・・。」
そんな話をしていると、だんだんBさんの顔が曇っていった。
そして、Bさんはこう言った。
「もしかして、それって自己憐憫?俺に同情してもらおうとしてる?大体、そんなの貧乏なうちに入らないよ。世界には今にも飢えて死にそうな人たちだっているんだ。それに、金持ちの人だって、好き好んで、金持ちに生まれてきたわけではないんじゃないかな。」
実はBさんの家は大変な大金持ちだった。そして、Aさんはそれを知らなかった。上のようなケースにおいて、Aさんも、Bさんも、それほど間違っているようには、僕には思えない。ただ、ご本人たちの、生まれてから今日までの、人生の立場とそこから得てきた視点が違うだけの話なのだろう。その上で言うのだけれども、今回の本題に話を絞って言えば、Bさんの言っていることはそれはそれで正論だろうけれども、どこか弱音アレルギーの匂いがする。


津軽の旧家に生まれ育った太宰治は、彼の「東京八景」の中でこう書いている。
「不当に恵まれているという、いやな恐怖感が、幼時から、私を卑屈にし、 厭世的にしていた。金持の子供は金持の子供らしく大地獄に落ちなければならぬという信仰を持っていた。 」
昔から、太宰治のこの手の文章に対して、極端に共感を覚える人と、極端に嫌悪感を覚える人がいる。後者の例として、同じく旧家の家柄に育った三島由紀夫などは有名である。私自身、三島由紀夫のエッセイをいくつか読んだことがあるけれども、この人が若者向けの雑誌などに気軽に書いたエッセイなどを読むと、どうも弱音アレルギーみたいなものが感じられる。太宰治と同じように恵まれた立場にありながら、それとは対照的な、「不当に恵まれていて何が悪いのだ」という、彼の開き直りの気持ちが伝わってくるのだ。そして、私には、その開き直りの実体として、あの弱者アレルギーにあるような気がしてならない。彼はそれを振り払おうとして、肉体改造や自衛隊入隊をしたりしてみたりしたのだけれども、結局はそれを克服することが出来なかったのではないか。


上のようなことを考えてみて、私はこう思う。
「弱音は鍛錬によって克服することが出来るが、弱音アレルギーは鍛錬によって克服することは出来ない。」
むしろ、「鍛錬」はそれを助長するだけなのではないか。ところで、この三島由紀夫は、太宰を嫌う一方で、同じく作家の稲垣足穂を尊敬していた。彼は、市谷の自衛隊の駐屯地に乗り込む前の澁澤龍彦との対談の中で、自分はこれから愚行を行い、世間の笑いものになるかもしれないけれども、そんな中で唯一分かってくれるのは稲垣足穂だけだと断言していた。しかし、その自衛隊での事件後、稲垣足穂は「三島星堕つ」を書き、その中で、三島由紀夫はものの哀れを知らなかったと述べている。僕はなるほどと思う。弱音アレルギーを克服するために必要なのは、「鍛錬」ではなく、「ものの哀れ」だろう。何故なら、弱音アレルギーの人に一番欠けているのはそれなのだから。であるのにもかかわらず、弱音アレルギーの人は、三島のように、しばしば鍛錬に走ってしまう。不当に恵まれている人は、誰にでも出来る鍛錬をやり抜くことで、自身が受けた恵みにまとわりつく不当さを払拭しようとする。それは誰のためにかと言えば、自分のために。そして、終わりなき挑戦に自らを駆り立ててしまい、ただひたすらその症状を悪化させてしまう。それでは心が苦しかろう。


心の苦しみから抜け出す唯一の糸口は、自分に欠けているものについて悟ることだ。イエスは言った。
「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい。」
For it is easier for a camel to go through a needle's eye, than for a rich man to enter into the kingdom of God.
(ルカによる福音書 18 25)


恵まれている人がすべきことは、自身の恵みの不当さを鍛錬によって正当化することではなく、自身の持つ恵みを社会に役立てることだろう。
世の中において一番哀れなのは、ものの哀れというものを知らない人なのかもしれない。