○今日の東アジアには、大きく分けて2種類の歴史観がある。ひとつは純血種史観であり、もうひとつは混血種史観である。私は、日本人と在日韓国人の間に生まれた混血児である。だから私の歴史観は混血種史観である。混血種史観とはいわば複眼史観であり、純血種史観とは単眼史観である。

○純血種史観と混血種史観は明治時代にもあった。当時の純血種史観の代表は、長州人や薩摩人などによる幕末史観である。それに対する混血種史観とは、例えば、山口県民と鹿児島県民のハーフによる幕末史観である。今日では、両者の区別はなくなってしまったが。

○キリストの「善いサマリア人のたとえ」についてサマリア人はいわば混血種である。だから、彼らの史観は混血種史観である。彼らの史観は純血なユダヤ人には受け入れられなかったが、イエスは彼らをたとえ話に持ち出した。

○博愛主義は混血的な発想である。それは、複数の民族や人種を同胞と呼べる人間にとっての当たり前の感覚を述べたものに過ぎない。純血種の人にとっては禁忌なのかもしれないが。

○意地悪な気持ちに対抗しようとする気持ちは、意地悪な気持ちである。意地悪な気持ちに共鳴するのは、意地悪な気持ちである。意地悪な気持ちは、意地悪な気持ちを生み出すが、それも何もないところから生まれるわけではない。そこには最初からその種があったはずである。他人が蒔いたのは種ではなく、肥料である。肥料から芽は出ない。
「人間が憎み合うのは、自分と相手を隔てるからだ。」(ウィトゲンシュタイン)
反日も、反中も、嫌韓も、純血種による意地悪な気持ちである。

○正しいものの見方とは、どの視点からものを見るかではなくて、どのぐらい多くの視点でものを見るかで決まる。例えば、国際問題において、日本人の視点や韓国人の視点や中国人の視点より、日本人と韓国人のハーフの視点や日本人と中国人のハーフの視点の方が、現実的であり、分かりやすい。単眼より複眼の方が分かりやすい。

○過去(歴史)に希望的観測を差し挟むのは、死人を生き返らせようとするようなものである。

○宗教がアヘンなのではない。真のアヘンはジンゴイズムである。

○ジンゴイズムという名の純粋な揺りかご、あるいは、純血のぬるま湯。

○民族問題を個人主義的に考えると、どうでもよい話になる。個人的な問題を民族主義的に考えると、どうでもよい話になる。

○マジョリティには見えないものを、マイノリティは見ている。

○世間になじめない人だけが、世間から脱出することが出来る。

○今、ここで私は以下のように考えてみる。
マジョリティ := 世間
「マジョリティが見えないもの」とは、「世間の外にある世界」である。

○民族問題をめぐる様々な論争は、コメディ映画に出てくるパーティーにおけるパイの投げ合いに似ている。ある子供がいたずらでパイを中年男性に投げつける。顔面に命中した中年男性は怒って手元にあったパイを投げ返すが、子供がひょいとよけると、隣の中年女性に当たる。怒った中年女性がパイを投げ返すと、それが若い女性に当たる。そうして、パーティー会場全体がパイの投げ合いになってしまうが、各自が自分の正当性を主張して、最後には収拾がつかなくなってしまう。しかし、他人にパイを投げつける人が主張できる唯一の正当性は「私は他人にパイを投げつけられた」ということだけなのだ。