今日の我々は成熟した文明社会に暮らしている。生活している限り、飢えて死ぬということはなさそうである。それならば何の不自由もなく暮らしていけるのかといえばそうでもない。社会のあちらこちらに不満が溜まっていて、苦しみや憎しみが絶えない。これは何故なのだろうか。私はその原因の一つとして、個人主義の蔓延があるのではないかと考えている。
以下、それについて述べる。


■個人主義の定義
個人主義の定義は、以下の通りである。
1.「自分ひとりのことしか考えないこと」
いわゆる利己主義である。しかし、この定義は現実的ではない。世の中に自分ひとりのことしか考えない人というのはまずいない。誰でも家族や身近な友人のことぐらいは考えるからだ。これを端的に言えば、以下のように言える。
世の中に利己主義者はいない。
そう考えてみると、個人主義の現実的な定義は以下のようになるだろう。
2.「自分と家族や友人のことしか考えないこと」
つまり、イナガキタルホ(稲垣足穂)の言う「何事も自己と家族徒党の上にのみ限られている人」の人生観である。この定義をもう少し広げて、次のように考えてみるとどうだろうか。
3.「顔見知りの人のことしか考えないこと」
世の中には顔見知りの人には親切にするが、見ず知らずの人に対しては不親切な人は多い。例えば、顔見知りばかりの社員食堂ではちゃんと並んで他人に道を譲ったりする会社員が、電車に乗るときには平気で見知らぬ人を追い抜いて空いている席に駆け込んだりする。こういった生き方も結局は個人主義の延長だろう。では、この定義をさらに広げて、次のように考えてみるとどうだろうか。
4.「地域社会のことしか考えないこと」
ある地域社会に暮らしていて、その社会において出会う人に対しては、その人が顔見知りであろうとなかろうと親切にするが、遠く離れた外国での災害、戦争、差別、弾圧などについてはまったく関心がないと言う人はよくいるが、ここまで来ると、常識的な感覚から言えば、もう個人主義とは言えない。しかし、よりマクロな視点で考えるならば、個人主義と言えなくもない。何故なら、そういった個々人のものの見方が、例えば、国家間の外交における首脳の態度などによく現れるからである。排他的な民族主義や愛国主義(ジンゴイズム)などは、これの典型例である。


一般に、個人主義は自覚されにくい。「私は個人主義者だ」と自称する人はまずいない。これは、「私は差別主義者だ」と自称する人がいないのに似ている。しかし、他人の視点で見るならば、個人主義者や差別主義者はいくらでもいる。これは何故だろう。


個人は、単独では成立することが出来ず、他人との何らかの関わりがあって成立している。そう考えてみると、「個人主義」とは、あくまでも机上の理論であって、現実的には「身内主義」とでも言った方が分かりやすい。言い換えれば、「身内主義」が、現実社会における「個人主義」なのだ。自分のことしか考えないのと、自分と自分の家族、友人のことしか考えないのは、世の中全体から見れば、大差がない。当人は、自分が常に家族や友人を思いやっていることをもって、自分が個人主義者であるなどとは思いもしないのであるが、その家族や友人と何の面識もない隣人には、自分のことしか考えていないようにしか見られていないと言うことはあり得るのである。それどころか、世の中には、「家族のため」、「友人のため」という建前を持ち出しては、見知らぬ人に迷惑をかけて、何の罪悪感も感じないという人が少なからずいるのである。そう考えてみると、世の中にはいかに「個人主義者」の多いことだろう。
参考:マタイによる福音書 5 43-48


■個人主義の定義 2
個人主義とは、(全人類に対して)私というニッチなところを攻めることである。

■個人主義の構成要素
個人主義は以下の3つの構成要素に分解することが出来る。
1.快楽主義
2.成功主義
3.それらをかなえるための能力主義

■個人主義と成功主義
個人主義は短距離走だから、成功か失敗かが一代限りで判明する。博愛主義は長距離走、もっと言えば、リレーだから、自分が志半ばで倒れてもかまわない。キング牧師やガンジーは個人的には志半ばで倒れたが、彼らの人生は間違いでも、失敗でも、無駄でもない。博愛主義に失敗はない。


■個人主義と能力主義
努力は意外に個人主義的である。高学歴欲しさに受験勉強を一生懸命頑張るのは、個人主義である。それを親も先生も一生懸命後押ししているのだ。問題を解決するために能力が必要なのであって、能力を得るために問題を避けるというのは本末転倒である。個人主義者が能力主義に走るのは、彼らには人生における失敗が許されないからである。


■個人主義者の発生原因
「自分のことは自分でしなさい」とはその通りである。ただ、「自分のこと」は、「個人的なこと」だから、あまりそれに熱中していると、エゴイズムに陥ってしまう危険性があることも忘れてはいけない。


個人的な金儲けに夢中になっている人は、小さい頃、テーブルを拭いたりしたときに、「あら偉いわね」と言ってもらえなかった人なのではないか。つまり、「『自分にとって有用ではなくても、社会的には有用なこと』をする喜び」を知らないのだ。


■成熟社会に個人主義が蔓延する原因
成熟した社会とは、フレームワークの安定した社会である。であるから、そこで暮らす人は自分の役割を果たすだけでよい。その結果として、そこに住む人たちは自分に割り当てられた義務を果たすことしか考えなくなってしまう。かつての幕末や学生運動の時代のように、社会の仕組み全体が間違っているから、自分がそれを変えなければならないなどと考える必要はないのである。そうして、社会全体の問題に目を向けないので、自分と直接関係のない人たちが何らかの社会問題で苦しめられていても、まるで気が付かないのである。たまに関わることがあれば、「それはその人の問題であって、私には関係がない。その人がそうなってしまったのはその人の努力不足が原因であって、結局はその人の自己責任である」と言った、誰でも思いつきそうな解釈で話を済ませようとする。自分にとって利益のない話には関わりたくないのだ。


■個人主義者の社会性
人間は、問題を通じて、社会と繋がっている。また、その一方で、利益を通じて、世間と繋がっている。(世間とは、社会における個人主義的部分集合である。)

個人主義は哲学における幼年期である。成人期以降における個人主義は、哲学的な引きこもりである。世に言う引きこもりが、実家が裕福であればあるほど気兼ねなく続けられるように、個人主義は、社会問題に関わりがなければないほど気兼ねなく続けられる。(人間的な問題は、個人的な問題からではなく、社会的な問題から導き出される。(個人的な問題は、個人的に解決すればよいから、それが普遍的で人間的な問題にまで高められることは稀である。)

耐える義務のない人は耐えることを知らない。


■個人主義と博愛主義の関係
強気な個人主義者と弱気な博愛主義者。
一般に、個人主義者には強気な人が多い。その一方で博愛主義者には弱気な人が多い。何故なら、個人主義者は自分のことしか考えていないから、いつも強気でいられるのである。その一方で、博愛主義者は自分以外のことをあれこれしようとして手が回らないから、いつも弱気にならざるを得ない。

個人的な問題は個人的に考えることが出来るし、個人的に解決することも出来る。
社会的な問題は個人的に考えることが出来ても、個人的に解決することは出来ない。

博愛主義が原因(問題)を求めるのに対して、個人主義は結果(利益)を求める。

個人主義者は短距離走の選手に似ている。彼らは人生において、走りたいときだけ全力で走る。これに対して、博愛主義者は長距離の選手に似ている。彼らは人生において、常に大きな目標に向かって一定の速度で走り続ける。彼らは個人主義者のように全力疾走することもなければ、立ち止まることもない。ここに両者の生き方の違いがある。

個人主義的な勝利よりも、博愛主義的な敗北の方がよい。


■個人主義者と心の強さについて
参照:【思索】心の強さについて


■個人主義者と弱音について
個人主義者には、弱音を嫌う人が多い。個人主義者はこう考える。
「人間は個人の努力によって、なんでも克服することが出来る。弱音を吐くのはその人の努力が足りないから。」
こういった考え方には、宿命論がかけている。個人主義者は宿命というものを知らないのだ。個人主義者の強気は、たまたま上手くいった個人的な結果に基づいている。個人主義者の主張の強さは、個人的な能力の強さに比例している。「弱音」に対する憎悪には、常に個人主義の臭いがする。


■個人主義者が求めるもの
個人主義者が求めるのは幸福ではなくて、幸運である。人間社会において、全員が幸福になることはできるが、全員が幸運をつかむことは出来ない。何故なら、ある人が幸運をつかんだら、他の誰かが不運をつかむことになるからである。幸福を求めるのは博愛主義的発想だが、幸運を求めるのは個人主義的発想である。


■個人主義者が恐れるもの
個人主義者が一番恐れるのは、社会問題とかかわることである。なお、冷やかしは個人主義者が社会問題に関わらないで済ませるための最もコストのかからない自衛策である。
(他人から冷やかしを受けたら、自分がその対照の立場にいることを、感謝すればよい。)


■エリートと個人主義
日本語で使われるところの「エリート」にはあまりよい響きがない。日本語でエリートという言葉が使われるとき、そこには個人主義者というニュアンスが含まれている。世の中には、さまざまな分野にエリートがいる。例えば、政界のエリート、医学界のエリートといったように。ところで、ボランティアのエリートというのは聞いたことがない。
「ボランティアに資格はいらない」(キング牧師)


■個人主義者の価値観
恵まれている人とは、個人的に高い価値を有している人である。恵まれていない人とは、個人的に高い価値を有していない人である。個人的な価値は、世の中全体から見れば、たいしたものではない。恵まれている人が、自分の個人的な価値を守ることにこだわっていると、個人主義者になってしまい、世の中が見えてこない。恵まれていない人は、自分の個人的な価値を得ることにこだわっていると、個人主義者になってしまい、世の中が見えてこない。個人主義者は、恵まれている人にも、恵まれていない人にもいる。


■個人主義のギャンブル性について 勝ち組とは何か
勝ち組も負け組も個人主義の一種である。勝ち組は現状において支障がないので、個人主義のままで差支えがない。しかし、その勝ち組も負け組になる可能性はある。負け組が勝ち組よりも恵まれている唯一の点は、個人主義の矛盾に気が付きやすいことである。個人主義の矛盾に気が付いた負け組が、別の道を捜し求め、そこに人生の意味を求めると、救われることがある。この別の道を先人が一般論として説いたものが、いわゆる「宗教」である。負け組は勝ち組よりも個人主義から抜け出しやすい。


個人主義者は、その人生を振り返ってみると、2種類に分けられる。
1.個人的に成功した人。
2.個人的に失敗した人。
1.を勝ち組、2.を負け組という。勝ち組も負け組も個人主義者である。個人主義は一種のギャンブルである。だから、負け組が勝ち組をねたむのは筋違いである。負け組の人は誰にもその責任を求めることが出来ない。何故なら、あなたは個人主義というギャンブルに自らの意思で参加したのだから。私は個人主義者ではないので、個人主義というギャンブルには参加しない。個人主義のギャンブルに参加しないから、私には勝ち組も負け組もない。


■個人主義とジンゴイズム
ジンゴイズムで友情を得ると、同じだけの憎しみが帰ってくるので、結局はトントンである。個人主義者が社会問題を利用すると、ジンゴイズムが生まれる。ジンゴイズム的手法によって友人を獲得するのは、人間社会をマクロな視点で見れば、かなりの重罪である。それは例えるならば、子供がいたずらで線路の上に置石をするようなものである。当人にはたいした悪気もないのかもしれないが、それによって数万人の人間の生活に混乱が生じるのである。以前にも述べたが、敵の敵は悪友である。


■以下、雑記
○個人的なことで悩むのは、個人主義者がすることだから、個人的なことで悩む必要はない。
個人主義者の人が「だからそれが何なの?」と言うようなことに、個人主義者以外の人たちの人生の楽しさはある。

○目的なき手段は個人的にしか使われない。

○課題なき鍛錬は個人主義による。

○ずいぶん昔に個人主義を捨てた。個人主義を捨てた私は、もはや個人としての魅力がない。性欲に基づいた魅力は、個人主義の産物である。現在の私はカッコよくもなければ、カッコわるくもない。

○私は常に群集の一部である。

○個人主義者でない人の特徴:「地球や宇宙の最後が気になる。」

そのときまであなたは生きていないのだが。

○美しい人には個人主義が必ずしも感じられないが、美しくしている人には個人主義が感じられることがある。

○個人主義者が偽善者であることはまずない。

彼らは偽るべき善を知らない。

○「私の夢」を見ている人の意識は、その人の肉体の死と共に滅びる。

「私たちの夢」を見ている人の意識は、その人の肉体が死んでも滅びることがない。

誰かの意識がその夢の続きを見るだろう。

○私たちの夢について。

例えば、こう考えてみよう。あるところに仲のよい数人の高校生たちがいた。同じ大学を目指して、受験勉強中だった。いつも彼らは「一緒にがんばろうね」と言って励ましあっていた。このとき、彼らは「私たちの夢」を見ているのではなく、実は、各自が結果的に同じ「私の夢」を見ているだけなのである。大学受験において、「私が合格する夢」と、「私以外の人が合格する夢」は、相容れないから、それは「私たちの夢」ではない。彼らの見ている夢は同床異夢である。

○個人的な人間関係において、『お客さん意識』が抜けない人たちが多い。今自分の目の前にいる同僚や知人が、名も知らぬコンビニ店員にしか見えていないのだ。

○個人間の争いは、メタな議題を含まないから、興味がない。

○人間にとって、「分かる」とは、「価値を感じる」ということだ。つまり、「分かる」とは、「(自分にとっての)メリットが分かる」ということだ。人間は、自分にメリットのないことはなかなか理解できない。

○個人主義者の特徴:不完全義務に関心がない。

○個人主義者の口癖:「何故、私がそれをやらなければならないのですか。」
(個人主義者にとっては、誰かがやらなければならないことをやるのが自分であってはならないのである。)

○「タバコを何本吸おうと俺の勝手だ」と言う人には、「肺が真っ黒になる」という因果応報が用意されている。「自分のことしか考えなくて何が悪い」と言う人には、「自分のことで頭が一杯になる」という因果応報が用意されている。自分のことは全部自分で始末をつけなければならないから、自分のことで頭が一杯になっている人は自分のことで手一杯になるだろう。自分のことで手一杯になっている人は、やがて誰とも何も出来なくなるだろう。

○私欲の実現を祈るのは時間の無駄である。誰がそれを叶えてくれるのだろう。それは独り言に過ぎない。

○個人主義者の人生論に共感しない。

○個人主義者による自己証明はもくろんだ時点で成功している、自己証明をしたいという個人主義的な動機によって。博愛主義者による自己証明はもくろんだ時点で失敗している、自己証明をしたいという個人主義的な動機によって。

○個人的な成功者のニッチなること。

○マラソン選手は、100m走の選手のようには、全力疾走しない。全力疾走する人が走る距離は短い。ある人が「私は今日までの人生においていつも全力疾走してきた」と言う。その人は短距離を繰り返して走り続けてきたわけだ。人生における短距離とは個人的なことだから、それを繰り返して生きれば個人主義者にならざるを得ないだろう。

○個人主義と利己主義の違いについて:利己主義は個人主義の一種である。言い換えるならば、利己主義ではない個人主義が存在しうる。利己主義ではない個人主義とは何か。それは個人的な義を果たすことに生きがいを持つことではないか。例えば、社会の為ではなく、自分の為に自己研鑽に励むのは、個人主義であるが、利己主義であるとは限らない。例えば、個人競技のスポーツ選手は個人主義者であるが、利己主義者であるとは限らない。

○個人的な損得にこだわるのが、恵まれている人と恵まれていない人の意外な共通点である。前者は少しでも損をしないために、後者は少しでも得をするために。「持ちつ持たれつ」は、恵まれない人には肯定され、恵まれている人には否定される。なお、恵まれている人は「持ちつ持たれつ」を否定するためにしばしば「自立」を持ち出すが、自立している人間はいない。

○極めて恵まれない境遇と、極めて恵まれた取り得を併せ持つ人。その人が自分の恵まれた取り得で自分の恵まれない境遇を埋めようとする。それは造作もないことなので、その人は誰にも止められなくなる。その人は強気な個人主義者になるだろう。

○人間は、他人の非を見たときよりも、自分の非を見られたときの方が、腹を立てるものである。後者の際、反射的に「そういうあなただって・・・」と言い返してしまう。自分の非を見られて腹を立てるのは、善意か、悪意か。

○個人的な問題でひどく困っている人よりも、社会的な問題でわりと困っている人たちを助ける方が、より重要かもしれない。

○世の中には、自分の人脈管理のために、他人に親切にする人がいる。いわば、「個人主義的博愛家」である。
○エゴイズムを燃やして輝くのが魅力。憐れみを燃やして輝くのが栄光。

○未熟な博愛主義者は「自分探しの旅」に出て遭難する。個人主義者は「自分磨き」に没頭して人生の大義を得ることがない。
○個人主義者の特徴:統計上の問題に関心がない。自分が当事者でない限り、彼らにとってその問題はあってないようなものなのだ。
○個人主義者は美しいが食べられない実を結ぶ。