大学時代、私は杉並の下宿で毎日暮らしていた。大家さんが庭に建てた離れには、お隣さんもおらず、住むには気楽だった。私は大学にも行かず、夜な夜な漫画を描き、夜が明けては眠り、夕方前に起き出しては、近所の古本屋にバイトに行っていた。それで一日が終わった。人と話すのがわずらわしく、貧乏を理由に電話を取り付けなかった。下宿には漫研の仲間がときどき尋ねてくるぐらいで、おおよそ女学生らしからぬ生活をしていた。私は、いつものように夕方前に目覚し時計に起こされると、膝の破れたジーンズを履き、髪を櫛で梳かしただけで、駅の反対側にある古本屋に向かった。その古本屋は個人経営のお店にしてはわりと大きく、漫画中心の品揃えでそれなりに利益を上げていた。私はそのお店で毎日店番をしていた。この店のバイトを選んだ理由は、普段、なかなかお金を出してまで読む気のしない、いろいろなジャンルの漫画を好きなだけ借りて読めることだった。今まで自分の好みで読んでいた漫画以外の作品に触れることは私にとって大きな刺激になった。このお店では店長の意向で、全館セットのものを除き、すべての古本にはビニール包装がされていなかったので、近所の小中学生の溜まり場になっていた。最初は子供たちはみな同じ顔に見えていたが、毎日、その店のカウンターに座っていると、だんだん一人一人の区別がつくようになってきた。ときどき来る子もいれば、毎日のように来る子もいる。よく買って行く子もいれば、毎日じっくりと立ち読みするくせに一度も買ったことのない子供もいる。そんな中で、一人の少年が目に止まった。その子は背丈だけで言えば中学生ぐらいの身長があったが、ランドセルを背負っていることで、かろうじて小学生だと判別できた。一緒にいる子供たちの中でも群を抜いて背が高かった。いつも腰にサッカーボールをぶら下げていたから、サッカー部にでも所属しているのだろう。運動しているからだろう、無駄な脂肪は一切なく、手足はしなやかに伸びており、褐色に焼けた頬は精悍にやせこけていた。友達からは宮本と呼ばれていた。その子は毎日のようにうちの本屋に来たが、めったに本を買って行くことはなかった。立ち読み組の常連だ。普通、立ち読み目的の客は店を出るとき、申し訳なさそうに顔をこちらから背けて出て行くか、何食わぬ顔をして出て行くのが普通なのに、彼はいつもこちらを見て申し訳なさそうに頭を少し下げて出て行くのだった。そのおどおどとした様子がういらしく、私はその子が気に入っていた。私はときどきカウンターで仕事をサボって、子供たちをデッサンしていた。その頃、私は少年を主人公にした、純然たる少年漫画を書きたいと思っていたから、彼らは格好の練習材料だった。その中でも、彼は頭が小さく、スタイルがよいので、とてもよいモデルだった。私は何度もこっそりと彼を絵に描いていた。
本屋のバイトがお休みのある日、私は夜明けまで漫画を描いていた。それで夜まで寝るつもりでいたのが、玄関のドアを叩く音で目が覚めた。私がよろよろとしながら、玄関のドアを開けると、そこにはいつも古本屋で見かける彼とふたりの小学生が立っていた。その彼の手元には、痩せこけて今にも死にそうな子猫が抱えられていた。子猫には彼らがつけたらしい荷造り用の細いビニールの首輪がつけられていた。彼は私に気が付いたのか、ぴょこんと頭を下げた。
「どうしたの?」
「猫を拾ったんです。今にも死にかけてて、かわいそうだから、飼い主を探しているんです。そちらで飼ってもらえませんか。」
やっぱり、そうか。
「ごめんね、うちは賃貸だから猫は飼えないのよ。ごめんね。」
「はあ、そうですか。」
彼らは肩を落とした。
「そうだなあ。どこか、犬猫病院でも探したらいいんじゃないかな。そこに一旦預けたら、飼い主とか探してくれると思うよ。その子猫、弱ってるから一度病院に連れて行ったほうがいいと思うよ。」
私はいいかげんなことを言った。
「はい。分かりました。ありがとうございます。」
そう言って、彼らは帰っていった。ビニール紐に繋いだ子猫を連れて歩く小学生の三人組はなんだかとてもシュールだった。
それから何年かして、私はようやく大学を卒業し、大好きな漫画を書くのも止め、地味な信用金庫に就職した。仕事はとても退屈だったが、毎日そつなくこなしていた。そんなある日、私は風邪をひいて、仕事をお休みした。午前中に病院に行く予定だったが、予想以上に症状がひどく、午後になってようやく行くことが出来た。病院に行くのが久しぶりで、どの病院へ行ったらいいのか分からず、とりあえず大きな総合病院へ行くことにしたのだが、これがいけなかった。待ち時間が異常に長く、2時間半かかってようやく診察を受けることが出来た。それにもかかわらず、自分自身の診療はたった五分で終わってしまった。なんという病院だ。何とかならないのかしら。私は薬を受け取ると、自転車を漕いで自宅へ向かった。すっかり夕方になっていた。病院は自宅と駅を挟んで反対側にあり、けっこう遠かった。自転車を漕ぐペダルに力が入らず、いつまでたってもうちに着くことが出来なかった。さらに運の悪いことに、ようやくあと少しで駅までたどりつくところで、タイヤがパンクしてしまった。私は泣きたくなってしまった。やむを得ず、カターン、カターンと間抜けな音をさせながら自転車を押しながら歩いていた。あと何キロあるんだろうか。風邪で朦朧としているのか、貧乏性のせいなのか、自転車を乗り捨てて帰ろうという発想が浮かばなかった。武蔵野の夕日はスモッグにまみれて、ちっともぶるぶると煮えたぎってはいなかった。それでもふらふらしながら、意地になって自転車を押していると、後ろから声がかかった。
「どうしたんですか?大丈夫っスか。」
振り向くと、いつかの彼がそこにいた。彼は通学の帰りらしく、自転車にまたがっていた。
「ああ、きみ。ほら、あの・・・。」
朦朧として、宮本という名前が出てこない。
「はい?」
かれはきょとんとした。
「あれ、私のこと、覚えてない?」
「すいません。それより、自転車、パンクしたんですか。」
「うん、そう。それで押して帰ってたんだけど、風邪ひいてて気持ち悪くて。」
「ああ、そうですか。よかったら、家まで送っていきましょうか。どうせ、同じ方向なんで。自転車はそこの駅前の駐輪場に止めておけばいいっスよ。」
そういうと、彼は自分の自転車から降り立った。自転車から降りた彼を見て、私は驚いた。彼はいつの間にか私より背が高くなっていた。私は彼を見上げてしまった。彼は私のかわりに自転車を押して、駐輪場に止めてきてくれた。そして、戻ってくると自分の自転車にまたがった。
「後ろ、乗ってください。」
見ると、荷台には彼の通学カバンがくくりつけられていた。
「カバンの上に座ってもいいの?」
「大丈夫っス。かわりに僕のサッカーボール持っててもらえますか。」
私は風邪で朦朧としていたため、えんりょなく座らせてもらった。私は荷台の左側に両足を伸ばして座り、左手で膝の上でおいたサッカーボールを抱え、右手で彼のわき腹を抱えた。
「いきますよ。」
私は彼の背に寄りかかり、彼の脇腹にしがみついた。彼は、身長だけでなく、体つきもいつの間にか大人の男になっていた。彼に体を寄せると、汗の匂いがうっすらとしたが、不愉快ではなかった。上司のおじさんの匂いとはえらい違いだ。彼はゆっくりと自転車を漕ぎ出した。私は風を受けて、少し気分がよくなってきた。彼の背がとても温かく、眠気を誘われる。
「ねえ、君。」
「はい?」
「君、高校生?」
「はあ、一年っス。」
「サッカーやってるの?」
「はあ、一応。サッカー部なんで。まだ雑用ばかりっスけどね。」
「そう。で、君、彼女いないの?」
「ははは、いますよ。」
「何人いるの?」
「今はふたりぐらいですかね。この間まで、もう少しいたんですけどね。どこへいっちゃったんですかね。」
「ほう、そりゃけっこうなこと。」
そりゃ、もてるだろうなあ。彼はそのまま自転車を進めていった。
「この先でいいんですよね。」
「うん、そう。お願い。」
私はいよいよ風邪で意識がなくなっていた。ただ、サッカーボールを抱えて、彼の背中にしがみついていた。うとうととするうちに、ブレーキパッドの磨り減った自転車がギッと音を立ててとまり、彼が振り返った。
「ついたっスよ。」
顔を上げると、そこは我が家だった。
「ああ、ありがとう。」
私はようやく意識を取り戻し、彼の自転車から降りた。私は彼にサッカーボールを返すと、お礼を言った。
「今日はどうもありがとね。いつもならお茶でも入れるところだけど、今日は風邪をひいてるから、ごめんね。」
「あ、いや、いいっスよ。」
別れぎわ、私は彼に尋ねた。
「そういえばさあ。あのときの猫、どうなったの。」
「ああ、あの猫は、結局、僕が飼うことになって。いまでもうちにいますよ。狸みたいに大きくなって、親父の車のボンネットでいつも昼寝してます。」
「そう、よかったね。」
私は彼を見送って、うちに入った。なーんだ、全部、覚えてんじゃん。