昔、父さんが母さんとデイトした時
氷屋の前で父さんが言ったセリフ
私は外で待っていますから
あなただけ食べて来なさい
そんなおかしな父さんが
僕は困るけど好きだよ
同じ血が流れている
「父さんへの手紙」 作詞:早川義夫 より


僕は、小さい頃、上の早川さんのお父さんと同じセリフを言ったことがある。小さい頃、僕のうちはけっこう貧乏だった。両親は、ともに母子家庭だった上に、日本人の父と朝鮮人の母が周囲の反対を押し切って、結婚式も挙げずに結婚してしまったものだから、その生活はとても厳しいものだった。しかし、その両親が、ともにまったく贅沢を知らず、倹約家だったので、最低限の生活に問題はなかった。また、その下で育った僕たちも、そのレベルの生活が普通のことだと思っていたし、特に贅沢を望んでいたわけではないので、子供として特に不満はなかった。僕のお小遣いは、高校に上がるまで、毎月千円、1日に30円程度だったが、それでも特に困ることはなかった。ただ、その頃の自分のことを振り返ってみて、とても残念に思うことがひとつある。それは、僕が、貧乏である以上にケチだったために、当時、多くの友達からのお誘いを断ってしまったことである。小学校高学年の頃、僕は、それまであまり付き合いのなかったある級友とある漫画の話で息が合った。急に仲良くなった僕たちは、ある日、街の古本屋にその漫画を探しに行くことになった。用件が終わって、帰り際、彼が「面白いものがあるんだ」と言って、僕を誘った。彼は彼女をエスコートするように自信満々だった。ついて行ってみると、そこは、ティーカップやメリーゴーランドなどがあるデパートの屋上だった。そして、彼は言った。
「これに乗るのが面白いんだ。一緒に乗って遊ぼうよ。」
僕はそれを聞いて、一瞬迷って、断った。
「いや、いいよ。僕は乗らない。」
すると、彼が、
「どうして。」
と聞くので、
「乗りたくないから。」
と答えた。
しかし、本当はそうではなかった。手元にお金がなかったこともあるが、それ以上に、僕には遊具に乗るお金がもったいなく思えて仕方がなかったからだった。だいたい、僕は小さい頃から、金額と同等の物が手元に残らないことにお金を使うのが嫌だった。別の言い方をすると、その場限りのことにお金を使うのがとても嫌だった。例えば、買い食いをしたり、ゲームセンターでお金を使ったりするのが嫌だった。しかし、彼があんまりしつこく僕を誘うので、僕はついに上と同じセリフを言った。
「僕は乗らないから、君だけ乗るといいよ。」
すると、彼は彼でよほど乗りたかったのか、
「じゃあ僕だけ乗ってくるよ。」
と言って、ティーカップに乗った。僕はその様子を外から見ていた。彼は一人でぐるぐる回っていた。彼は楽しそうに手を振ったりしていたが、多分楽しくなかっただろう。その後、彼は2つぐらい遊具に乗ったが、そのうちつまらなさそうに帰ろうと言い出した。そして、僕たちはそれぞれの家に帰った。その後、彼と気まずくなることはなかったが、彼が僕をデパートの屋上に誘うことは二度となかった。


その当時、僕たちの間では釣りや漫画やガンダムのプラモデルが流行っていた。それで僕たちはよく釣りに行ったり、漫画の絵を書いたり、プラモデルを作ったりしていた。毎日がクリエイティブで、とても楽しかった。それからしばらくして、任天堂がファミコンを発売した。私はこれを持っていなかった。当時の僕の金銭感覚では、とても買うようなものではなかった。また、同じころから、ゲームセンターのテレビゲームが流行り始めた。中学に入ってしばらくした頃、それまで一緒に遊んでた友人らが、だんだん釣りやプラモデルを止めて、ゲームセンターに行くようになった。彼らだけではなく、おそらくクラス中の男たちがいくつかのグループに分かれて、ゲームセンターに通っていた。僕も、最初、しばしば誘われ、ついて行ったのだが、たいてい、ゲームをしないで、他の人がするのを黙って見ていた。しかし、何もしないというのもおかしいので、よくよく選んで、1、2回だけ何かのゲームをしてみた。お金はあっという間に消えてなくなった。なんだか親に悪いような気がした。そのうち、僕は、放課後、彼らと付き合わなくなった。と言っても、決して仲が悪くなったわけではなく、学校では相変わらず仲良く遊んでいた。ただ、放課後一緒に遊ばなくなったのだった。僕は、ひまなときには、ひとりで、小学校の頃と変わらず、河口で蟹を取ったりして遊んでいた。正直に告白するのだけれども、僕は、そのころ、同い年の友達がみんな子供に見えて仕方がなかった。


そのうち、僕はビートルズを知り、中古レコード屋に通うことを覚えた。それから、ストーンズ、Tレックスなどを聞くようになって、やがて戦前のブルースやバッファロースプリングフィールドなどの渋い音楽を聴き始めた。僕はこれらの中古レコードを買っては、当時のSONYやマクセルやAxiaなどのカセットテープに落として聞いていた。なお、今日、中古レコードを漁るのはかっこいい若者文化となっているようだが、これは’90年代以降の話ではないか。’80年代当時、中古レコード収集は、すくなくとも僕の地元では、若者のおしゃれな文化ではなかった。むしろ鉄道模型や切手収集の世界に近かった。中学生の僕はおじさんコレクターたちと情報を交換していた。時々、見ず知らずのおじさんに缶コーヒーをおごってもらったりした。その頃から、僕は、だんだん周囲の子供たちと話が合わなくなった。僕は、昼休みになると、職員室に行って、先生とおしゃべりしていた。同級生と話をしているより、先生と話をしている方が面白かった。先生はみな物知りだった。


それから、高校に上がった。高校は公立高校にしてはわりと進学校だった。中学の頃と違って、ゲームセンターに溜まって、煙草やシンナーを吸ってそうな生徒はほとんどいなかった。その高校においても、ときどき夕方お好み焼きやビリヤードに誘われることがあった。けれども、僕はたいてい断っていた。とにかくその場限りのことにお金を使いたくなかった。中には、男女数人で食事に行ったりすることもあったようだが、僕には縁がなかった。今、僕は、当時のことを振り返ってみて、ずいぶんもったいないことをしたものだなあと思う。僕はどこで何を間違えてしまったのだろうか。


僕は、今でも、ときどき学生の頃のことを夢に見る。たいてい僕だけ付き合いが悪くて、一人で過ごしている。知らぬ間に日が暮れて、気が付くと誰もいなくなってしまっている。そんな夢を今でもときどき見ることがある。僕はもっと人付き合いにおいて妥協すればよかったのかもしれない。そう思うと、とても残念なのである。