この間、母から電話がかかってきた。再来週、長野に旅行に行くから、あなたも行こうという。僕は気が進まなかった。兄も来るという。僕は兄にはここ10数年で1度しか会っていない。10年近く前の、兄の結婚式で遠くから見たきりだ。兄は普通の人だ。両親も普通の人だ。しかし、僕は、若い頃、長らく狂人だった。僕は急速に自我に目覚め、その急激な膨張に耐え切れず、崩壊寸前だった。今さら、どんな会話をすればよいのだろう。僕はとても気が重い。誰が悪いわけでもなく、僕自身が悪いのだが、僕は気が重い。僕はどんな話をすればよいのだろう。僕は誰の後ろに隠れればよいのだろう。

母から電話があった夜、僕は布団の中で小さい頃のことを思い出した。僕は広島の小さな田舎町で育った。小さい頃のある日、近所の畑がつぶされて、更地が出来た。その更地は子供たちの遊び場になっていた。ある日、その更地の上に、たくさんのパチンコ台が捨てられていた。山のように積み上げられ、それが子供たちの遊び場になっていた。ある夕暮れどき、僕はそのパチンコ台の山の上に上って、夕暮れを見ていた。瑠璃色と茜色が混じり合う夕暮れに、銀色の星々がたくさん瞬き、涼しい風が吹いていた。僕は、自分が今いつの時代に生きているのか分からなくなった。僕は、いつの日にか、今日のことを思い出すのだろうと思った。30年以上経った今日、僕はようやくそのことを思い出した。それからしばらくして、そのパチンコ台は撤去された。その後、その更地にはバッティングセンターが出来た。開店当時、その見慣れぬ施設はちょっと垢抜けた感じがしたものだ。

それから30年が経った。僕は久しぶりに帰省した。もう両親は郊外に引っ越しており、家族の誰もその町には住んでいない。しかし、懐かしさから、なんとなく町内を歩いていると、そのバッティングセンターが見えてきた。そのバッティングセンターは古びており、もはやいつの時代のものか分からなくなっていた。おそらく、今の子供には、それが出来た当時のことを想像することは出来ないだろう。そのあと、僕は、昔自分が住んでいた家々を巡った。僕は生まれてから、高校を卒業するまで、同じ町内に住んでいた。最初はアパートに住み、その後、長屋へ引越し、それから古い小さな一軒家に住んだ。それらを順にめぐってみると、すでにアパートと一軒家は取り壊されていた。すでに、長屋しか残っていなかった。長屋に行ってみると、岩崎某という女性が住んでいた。その長屋も、真向かいの同型の長屋がすべて取り壊され、そこには倉庫が建っていた。その倉庫は通路の半分にせり出し、僕が住んでいた長屋の玄関の戸は完全には開かないのではないかと思われた。僕は幼稚園の終わりから小学校の元まで、そこに住んでいた。そこは当時、釜の風呂があり、幼稚園児の僕は、毎晩、鉛筆の芯を抜いたような形をしたコークスを鉈で割って風呂を沸かしていた。幼児の僕は、火をつけるのがちょっと怖かった。ある日、僕は何本かの一升瓶を捨てようとして、玄関の前の通路で転んだ。ガラス瓶が割れ、転んだ拍子にガラスの破片で膝をざっくりと切った。そのときの傷は今も僕の左ひざに付いたままだ。僕は、その家の外から、その中を想像して見た。玄関の横には台所があり、そこでは若い頃の母が夕食を作っていた。玄関の奥には階段があり、小さい僕は兄と一緒にその階段をそりで滑り落ちた。父は居間に横になり、カラーテレビを見ていた。その家の遠くないところには空港があり、夜、窓を開けると、満天の星空を誘導灯が鮮やかに照らし出した。ある晩、父と母が窓の星空を見ていた。僕はふたりの後姿を見つめてうとうとしていた。懐かしい日々。

今、家族四人がそろうとどんなもんかしら。一番年下の僕でさえ、最近、ずいぶん歳をとったものだと思う。兄や両親においては、如何程だろうか。でも、こういう機会はもうないのかもしれない。考えてみれば、僕は若い頃ずいぶん我がままを押し通したものだ。すべては自分個人の理想に通じていたが、それらは結局のところ何の役にも立たなかった。家族は僕のことが理解できず、いつも困惑し、心配していた。僕は大学時代、何年も実家に帰らなかった。あの頃、僕はどうにかしていた。

今の僕は、小さい頃の無邪気だった頃の僕とは違うけれども、それでも、20代の頃の血気盛んだった頃の僕に比べれば、若干似ているかもしれない。今の僕は、小さい頃の僕に、やや似ている。今度、家族四人で食事をする。おそらくこれが最後だろうけれども、僕はそのときをどきどきしながら待っているのだ。