小さい頃、僕はたくさんの友達と毎日楽しく遊んでいた。しかし、いつ頃からだろうか。知らないうちに、周りの人たちとの付き合いがうまくいかなくなってきた。その理由も分からないうちに、青春時代が過ぎてしまった。しかし、最近になってようやく分かってきた。考えてみれば、僕が周りの人たちとの付き合いが上手くいかなくなった原因は、僕が10代の頃から考えごとにふけるようになったからだ。


10代の初めの頃、僕は考えごとにふけるようになった。一人で考えごとをしていると楽しかった。僕は、毎晩、思索の森を探検していた。同じ頃、僕は思春期を迎えた。僕はある女の子を好きになった。その子と付き合えたらいいなあと思った。おそらく、周りの男たちもみなそう思っていただろう。その子は、ギタリストと付き合っていた。結局のところ、特技のある男がもてるのではないかと思った。では、僕の特技とは何か。それは考えごとをすることだった。しかし、この考えごとというのは、いくら考えても、本人が口にしない限り、他人にその成果は見せられない。考えごとは夜寝ているときに見る夢に似ている。どんなに美しい夢や楽しい夢を見ても、他人にそれを見せることは出来ない。話して聞かせたところで、ああそうと言われるだけのことだろう。僕はその女性が他の男性と楽しく付き合っているのを、遠くから見ているだけだった。かわりに、僕は毎晩遅くまで布団の中で考えごとをしていた。考えごとをすると、頭が冴えて、眠ることが出来なかった。何時間も、布団の中をごろごろしていた。


20代になって、僕はある女性と付き合い、暮し始めた。その頃、僕は毎日楽しかった。一人で考えごとにふけっては、いろんなことに気付いたし、彼女といるときには、彼女と楽しく過ごしていた。しかし、今になって考えてみると、その頃、彼女は僕ほど面白くなかったかもしれない。何故なら、僕がどんなことを考えても、彼女にはそれを知ることが出来なかったから。僕と彼女はお休みの日にあちこちに出かけた。出かけるときはいつも電車だった。乗っている間、目的地につくまで、僕は考えごとをしていた。だから退屈しなかった。しかし、隣にいた彼女はずいぶん退屈だっただろう。今考えると、申し訳ないことをした。


思うに、考えごとをする人は、ピアノのないピアニストに似ている。ピアノのないピアニストは頭の中でピアノを弾く。本人はそれでいいのだろうけれども、周りの人は誰もその演奏を聴いて感動することがない。思えば、僕は10代の頃から、ずっとピアノのないピアニストだった。僕はいつも頭の中でピアノを弾いていた。好きな女の子を見つめているときも、彼女と二人で暮しているときも。彼女も友人も家族も誰も僕のピアノの演奏を聞いたことがない。ときどき、僕が突拍子もないことを言って、周囲を唖然とさせることがあったぐらいのものだ。だから、周りの人たちから見れば、僕はただの変わり者でしかなかっただろう。


そんな僕が、ようやくひとつのピアノを手に入れた。それがこのブログだ。僕は、今日まで、25年間、頭の中で考えごとというピアノを演奏していた。そして、今、ブログに向って、毎晩、演奏をしている。初めて、他人の見ている前で。想像がつかないのだけれども、最近、僕の演奏を、毎晩、聴きに来てくれる人たちがいる。また、前からずっと愛読しています、とメッセージをくれる人たちもいる。僕の演奏はまったくの我流だけれど、まるっきり音程の外れたものではないようだ。考えてみると、僕は今まで人から応援されたことがなかった。だから、この気持ちはこれまでにはなかったものだ。今のところ、唯一残念なのは、読んでくれる人とお会いする機会がないことだ。インターネットでは、こころで直接付き合うことが出来るが、逆に肉体を通しての付き合いが出来ない。いつかお会いする機会でもあればよいと思うけれども。


この先、いつまで生きられるのか分からない。何かの事故であっさり死んでしまうかもしれない。いつか更新の途絶える日が来るだろう。そのときまでに、書きたいことを書いておきたい。そうしたら、死んでからも、読んでくれる人はいるだろうから。虎が死んで皮を残すように、ミュージシャンが死んで音源を残すように、僕は自分の文章をこの世に記しておきたい。