(この放送は一部副音声のみでお送りしています。)


私の母は在日韓国人です。私の母は戦前の日本に生まれました。生まれたときは日本国民でした。戦後、母は日本国籍を失い、いわゆる在日になりました。1965年に日本と韓国が国交を回復した頃、母はそれ以前から交際していた私の日本人の父と結婚しました。’60年代に日本人男性と韓国人女性が結婚するのは非常に珍しいことだったようです。在日同士の結婚よりもずっと珍しいことだったようです。ふたりとも母子家庭で、父親の反対にあわなかったのが幸いしたのかもしれません。二人は小さなアパートを借りて、瀬戸内の工業地帯を転々と暮らしていました。いずれ、私の兄が生まれ、その3年後の’71年に私が生まれました。私が生まれたとき、私たちは広島市の小さな町にある、風呂なし、汲み取り式の古いアパートに住んでいました。階段を上がるだけでぐらぐらする恐ろしく古いアパートでした。


私たちが住んでいた町は古い部落街の延長に作られた古い埋め立て地にありました。戦前、この土地にはたくさんの朝鮮人が暮らしていました。彼らの多くは独身男性で、さらにその先の埋め立て工事に携わっていたようです。そして、このうちのいくらかは原爆で亡くなりました。それ以外の多くの人たちは戦後、朝鮮に帰国したようです。ちなみに、広島の原爆でなくなった15万人以上の人々のうち、3万人以上は朝鮮人でした。私の中学時代の友人K君のおじいさんも被爆しました。彼のおじいさんは原爆に驚いて、どぶに飛び込みましたが、どぶが浅かったため、背中が隠し切れず、背中のみを大火傷をしました。


さて、私が小さい頃、母はよく台所の床にしゃがみこんで、大豆もやしの根を取っていました。母がいつも大豆もやしを買ってくるので、私は小さい頃、もやしは必ず大豆がついているものだと思っていました。母は、ボウルに水を張り、そこにもやしを入れると、楽しそうに西田佐知子だのの古い歌を鼻歌で歌いながら、一本ずつその根を取っていました。そうして、その作業をすべて終えると、母はそれを茹でて、ごまと醤油で和え物にしました。私たち兄弟はそれをあっという間に食べてしまうのでした。また、母はその頃、本屋の店員をしていました。それで、ときどき返品になる先月号の児童雑誌から付録だけを抜いて持って帰ってくれました。私はそれを組み立てるのが、楽しみでした。また、その後、母はヤクルトおばさんになりました。当時、うちの冷蔵庫には販売期限の切れたジョアがたくさん入っていました。私はこれをたくさん飲んでいました。それから数年して、私たちは風呂がまのある長屋に引っ越しました。それから小さな一戸建ての、やはり古い借家に引っ越しました。この頃、私たち家族はよく山に遊びに行きました。山に遊びに行くと、母は山の中で一人でわらびやぜんまいを採っていました。そのうち父や私たち兄弟も手伝って、たくさんのわらびを採りました。木漏れ日の中で、母は笑い、父も笑い、私たち兄弟も笑っていました。幸せはわらびよりもたくさん生えていました。採ったわらびはすべて大きな袋に詰めて持ち帰りました。それを大きな釜で茹で、横に置いた網戸の上に並べました。放っておくと、それは乾燥してかりかりの乾物になりました。母はそれを別の袋に入れて、保存していました。その後、母は時々それを熱湯で戻して料理に使いました。また、当時私たちが住んでいた町の隣町にはいわゆる屠殺場がありました。そのまた隣町には朝鮮人が多く住む町があり、そこには在日の人が開いたお店がいくつかありました。母はよくそこに行っては豚や牛の腸や筋を買ってきました。そうして、その煮込んだものをよく食べさせてくれました。牛筋はすでに煮込まれていて、おでんのような味付けがされていました。それはとてもグロテスクでしたが、とてもおいしいものでした。この頃、私は母が朝鮮人であることを知りませんでした。


さて、この頃、ときどき私の父方の祖母が尋ねてくることがありました。祖母は明るい性格で、初孫だった私たち兄弟をとてもかわいがってくれました。私たち兄弟は日本人と朝鮮人の混血児でしたが、祖母はそんなことを気にかけず、私たち兄弟をとてもかわいがってくれました。祖母は、私たちが小さい頃には、私たち兄弟によく手編みのセーターを作っては、贈ってくれました。これが祖母の何よりの楽しみのようでした。これらのセーターは、それぞれ色違いで、どぎつい色でしたが、私たち兄弟はよくこれを着て遊んでいました。私の祖母は隣の市に住んでいたので、うちに遊びに来ると、大体その日か次の日のうちに自宅に帰りました。しかし、祖母が帰ると、何故か、母の姿が見えなくなりました。私が探すと、母はいつも脱衣場の古い板の間にしゃがみこんで泣いていました。私は、半ズボンのまま、母の横に体育座りすると、しばらくその様子を見ていました。それからしばらくして、母をつつきながら尋ねました。
「ヨボセヨ。オチョン イリエヨ?」
しかし、母は泣きじゃくっていて、答えられませんでした。私はもうしばらくして、もう一度尋ねました。
「オモニヌン ウェ ウルゴ イッスムニカ?」
すると、母は俯いたまま、泣きながら答えました。
「ノエハルモニガ ナルル クェロッピョ。」
私は何の感嘆詞もなく、再び母に問いました。
「チェハルモニガ ウェ チェオモニルル クェロッピプニカ?」
「・・・・。」
母は再び答えませんでした。
「ケンチャナヨ、オモニ。」
私はしばらく母のそばにいて、その頭をなでていました。9歳のことでした。


それから10年ほどして祖母が亡くなり、それからさらに数年して、私が社会人になってから、私は母と話をしました。そのとき、母は昔の私を思い出して、こう言いました。
「あんたが小さいとき、あんたはときどき大人みたいなことを言い出すから、お母さんはいつも内心でびっくりしとったよ。」
私は母の言う「大人みたいなこと」に心当たりがありました。しかし、私は覚えていないふりをして言いました。
「そうだったかな。どんなことを言ってたのかな。覚えてないな。小さい頃のことだしね。」
昨年、私の両親はそろって還暦を迎えました。私は両親にそれぞれかばんと財布をプレゼントしました。