うちに帰ってくると、彼女が炒め物をしていた。
「あ、帰ってきた。」
フライパンを握った彼女が振り返って、にっこりと笑った。
「うん。」
僕は普通に返事をしながら、内心で驚いていた。いつの間に彼女が戻ってきたのだろう、何があったのだろう。そんなことを考えながら、部屋に入っていった。僕が荷物を置いて、居間に座ると、彼女が作った料理を運んできて、テーブルに並べた。それから、彼女もテーブルについたので、食べようとすると、料理が上手く食べられないことに気がついた。よく見ると、何故か、僕の箸は大きく曲がっていて、思ったように食べ物がつかめないのだ。それでも何とか食べようとするのだけど、どうしても上手くつかめない。台所に行って、箸を取り替えようかと思ったけれども、そうしなかった。彼女の前で、間を空けたくなかったから。しかし、こちらが上手く食べられないでいると、気づいた彼女が、「箸を取ってくるね」と言って、台所に行ってくれた。それで、僕はしばらくテーブルの前で彼女を待ってきた。その間、僕はわくわくしながら、考えごとをしていた。ああ、こうしてまた一緒に暮らすのだな、もう同じ失敗は繰り返さないようにしよう。そんなことを考えていた。しかし、いつまでたっても彼女が帰ってこないので、僕は心配になり、台所に行った。すると、そこにはもう彼女はいなかった。調理道具も何もなくなり、台所全体が空っぽになっていた。ああ、そうだ、彼女は出て行ったのだった。僕はようやく思い返して、悲しくなった。そんなところで、目が覚めた。
僕は、起きると、シャワーを浴び、髭を剃って、歯を磨き、洗濯をしてから、出かける準備をした。今日は、春先に買ったルイヴィトンのハイビスカス柄のTシャツを着て、それにエルメスの白いパンツをはいた。靴はどうしようと思ったら、靴箱からこの間のセールで買ったエルメスの白い靴が出てきた。靴底がヌメ革で、磨り減りやすそうなので、ゴム底でも貼り付けてから履こうかと思い、そのまま一度も履いていなかった。しかし、靴底が磨り減ったら、担当さんに頼んで修理してもらえばいいわけだから、気にしないで履くことにした。上下夏らしい格好をして、裾上げをしてもらったスラックスを受け取りに、エルメスに行った。お店に着くと、担当さんと目が合った。担当さんは接客中だった。担当さんがそばに来て、「しばらくお待ちくださいね」と言った。いつもながら、笑顔の素敵な美しい女性だ。それで、僕は店内をあれこれと見て回った。店内はすっかり冬物に変わっていた。茶色や小豆色を使った縦ストライプのニットや靴下が並べられていた。今年の秋冬はこういったトーンで行くのだろうか。なかなかかっこいいシャツがあったが、値段をみると、15万円だった。通常のエルメスのシャツよりもさらに高い。しばらくすると、担当さんがいつもの笑顔で戻ってきて、スラックスを持ってきてくれた。ダブルに裾上げされたスラックスにはエルメスらしい気品があった。他愛ない話をしたのち、荷物を受け取ると、彼女に見送られて、僕は店を出た。
紙袋を手に提げて、僕は自宅まで歩いていた。歩きながら、僕は彼女のことを思い返していた。付き合い始めた頃、僕と彼女は初めてディズニーランドに行った。僕自身、ディズニーランドに行くのは初めてだった。5000円で入場したら、中の乗り物は乗り放題だとは知らなかった。しばらく遊んで、飲食店に入ったら、飲み物、食べ物の高さに驚いた。今考えれば、ごく普通の値段なのだけれども、彼女と付き合う前まで、長い間、引きこもって暮らしていた自分は、アミューズメント施設の価格に馴染めなかった。その何もかもがひどく高く思えた。
大体において、僕は貧乏性である。生まれ育った環境がわりと貧しかったし、両親がともに贅沢を知らない人たちだったから、僕も自然に両親の金銭感覚を受け継いでいた。僕の両親は二人とも母子家庭だった。瀬戸内の貧しい家庭に育ち、日本人と在日韓国人という、当時としては極端に例の少ない結婚をした。周囲の反対が強かったらしく、両親はそれぞれ家を出て、瀬戸内の工業地帯を転々としながら、無一文の二人暮らしをしていた。そのうち、両親は広島の市街地の外れに落ち着いた。親戚や幼馴染がひとりもいない環境で、二人は共働きをし、蓄えをしていった。僕が生まれたとき、風呂のない古い木造のアパートに住んでいた。ぐらぐらする欄干を掴んで上り下りしていたことや、定期的にやってくる汲み取りの車の臭い糞尿の匂いを今でも覚えている。それでも、生まれたときから、そんな暮らしをしているのだから、特に不満もなく、風呂がない代わりに、銭湯に行くのが温泉旅行のようで毎日楽しかった。その後、僕たちは、長屋に引っ越してから、古い一戸建ての借家に暮らした。それと同時に、僕は地元の幼稚園、小学校、中学校に通った。僕が育った町はどちらかと言えば下町で、中学の学区内には、在日の子供や部落の子供が多かった。中学の校舎の近くには屠殺場があって、そこから出る血の匂いが町中をずっと覆っていた。体育の時間、校庭にいると、血と脂の臭いでしばしば気持ちが悪くなった。中学を卒業して、市内の公立高校に通い始めた。この高校は郊外にあって、市内の、経済的にも、学力的にも平均的な学生が多かったように思う。それから、大学に進学するために、上京した。この高校、大学時代に、ときどき、友人から、いきなり、「俺の古着をやる」と言われることがあった。当時はその真意がよく分からなかったが、今考えると、彼らの家庭の経済水準に比べて、生活感覚の貧しいこちらに同情してくれていたようだ。貧乏な家庭に育った人間は、金銭感覚も貧乏性になりやすい。それでも、当人が小さい頃からその水準で育っているのであれば、本人としては、何の不満も覚えないだろう。ただ、ひとつ問題が起きるとしたら、それは自分の友人や恋人との経済感覚の違いから起きる行き違いかもしれない。中学の頃、当時の友人たちと遊んでいると、彼らはときどきコンビニでハンバーガーを食おうと言った。僕はいつも断わった。お小遣いがもったいなかったから。それでも、友人はおなかが空いているか、自分だけハンバーガーを買った。しかし、一人だけ食べているのは申し訳ないのか、僕にもかじらせてくれた。高校の頃、何人かの友人たちの間で、学校の帰りに駅前のお好み焼き屋で、お好み焼きを食べるのが流行っているらしかった。しかし、僕には500円のお金がもったいなくて、一度も付き合ったことがなかった。今考えると、二度とない青春期に、もったいないことをしたと思う。大学に通っている頃も似たようなものだった。靴は常に一足しかなく、履きつぶして、穴が開くと、近くの靴屋に行って、一番安いのを買って、その場で履き替えて、それまで履いていた靴を公園のゴミ箱に捨てて帰るような生活をしていた。その一方で、日常生活以外のことについては、僕の金銭感覚は壊れていた。今考えるとどうでもいいようなものに大金をつぎ込んでいた。芸術だの、哲学だの、文学だの、そういったものに、何かお金には換算できないとてつもない価値があるのだと信じていた。パンの耳をかじりながら、無理な買い物をしていた。当時の僕のエンゲル係数は極端に低かった。今考えると、そういう自分の金銭感覚を反省せずにはおられないけれども、当時の自分としてはそれが当たり前だった。その自分が、彼女と付き合い、初めてディズニーランドに行ったのである。帰りに、彼女が土産物屋で、ミニーの赤いビニール製の手提げを見ていた。値段を見ると、ちょっと高いと思った。「買ってやろう」の言葉が出ないまま見ていると、彼女はそれを自分で買いにレジに持って行った。
その後、僕は、一流企業に勤め、都心にマンションを買い、生活がどんどん向上した。そのうち、食べるものも、着るものも、以前では考えられないほどよくなった。孝行したいときに親はなしという。しかし、幸いなことに、僕の両親はまだふたりとも健在だ。それで、僕は、ときどき、エルメスのスカーフだの、ヴィトンのTシャツだのを買って送る。しかし、たいていのものは、両親にはもったいないらしく、そのまま取っているようだ。両親の金銭感覚は昔も今もさして変わっていない。それでも、母などは、上京してくるときに、僕が送ったヴィトンの手提げをうれしそうに下げてくる。間に合ってよかったと思う。それに対して、彼女の方はどうだろうか。今、振り返ってみたところで、僕は彼女に何もしてあげられない。よく、女性タレントが青年実業家と結婚したということがマスコミで報じられる。その場合、通常のカップルに比べて、多少なりと年齢差があるのが通例のようだ。それはそうだろう。ある女性が若く美しく輝く年代と、男性が自立し男として成熟する年代には少なからず開きがあるのだから。自分の人生において、残念に思うことは、初めて付き合った女性に何もしてあげられなかったことである。それだけは、今の僕にはどうすることも出来ない。