何年も前のことだが、私は以下のようなことを考えてみた。
問題 「加害者の罪の深さを被害者は計れるか」


昔、こんなことがあった。ある日、私は電車に乗っていた。山手線だった。で、これに乗って、席に座り、ぼうとしていると、ある駅で若くて美しい女性が乗ってきた。で、彼女は僕の隣に坐ったのだけれども、しばらくして居眠りを始めてしまった。よほど眠かったのか、やがて私にもたれかかってきた。私はなんとなく悪い気がしなくて、そのままにしていた。で、私は内心でこう思った。
「この女性は疲れているに違いない。私は全然かまわないので、好きなだけもたれかかってください。」
それからしばらくして、背広姿の中年のおじさんが電車に乗ってきた。で、そのおじさんは彼女とは反対の私の隣の席に座った。で、しばらくして、このおじさんも居眠りを始めた。で、このおじさんも私にもたれかかってきた。なんとなく加齢臭がするし、暑苦しい。で、私は内心でこう思った。
「このおじさんはなんて非常識なんだ。電車の中で居眠りした上に、何の関係もない他人にもたれかかって、社会人として恥ずかしくないのか。」
要するに、このとき私は、以下のように思っていたことになる。
「私にもたれかかる女性に罪はないが、おじさんには罪がある。」
しかし、冷静に考えてみると、この女性と、おじさんの間に何の罪の違いがあるのだろうか。両者のやっていることは同じではないか。
(あるいは、今、ここに2人の人間がいて、一方が悪意からあることを第三者に対してなし、他方が悪意なくにあることを第三者に対してなし、結果的に同じ量の加害を生むということもあるだろう。
つまり、悪意があっても、なくても、同じだけの被害を他人に与えることはあるだろう、ということである。)


上の気付きを言い換えると以下のように言える。
命題 「被害者は被害量によって、加害者の加害量を推測することは出来るが、それは必ずしも、加害者の罪の大きさに比例しない。」
これはさらにこう言い換えられる。
命題 「罪の大きさは被害量に比例しない。」


被害者の人は、被害量を基にして、加害者の加害量を測ろうとする。そこまでは分かるとしても、その量をそのまま罪の大きさ、もっと言えば、加害者側の悪意の量に当てはめるのは無理があるように思う。実際のところ、悪意の量と加害の量と被害の量は比例しない。(加害の量と被害の量が比例しないことについては、以前にも書いた。


【社会】被害量と加害量の違いについて
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10036974535.html


つまり、道徳的な善悪と、法律的な善悪は異なるわけだけれども、それが被害者の視点では区別がつきにくいわけだ。これは被害者側のものの見方が間違っているという話ではなくて、その立場から冷静にものを見るのは、誰がその立場であったとしても、難しいという話である。これは善意の場合も同じである。つまり、以下のようにも言える。
命題 「施しを受けた人は、施した人の善意の量を測りきれない。」
それは純粋な善意からかもしれないし、下心からかもしれない。ただし、上の命題は逆に以下のように言い換えられることも忘れてはならない。
命題 「加害者の罪の自覚のなさは被害量を低減しない。」
つまり、「悪気はなかった」ことが、「被害者に被害を与えなかった」ということではないということである。