世の中にはコンプレックスを抱えている人ってたくさんいますね。で、誰しも、一度はそれを克服しようとするのだろうけれども、なかなかそれがうまくいくものではありません。で、たいていの人は、ある程度のところで諦めるのだけれども、なかなかそれを諦められない人っていますね。それどころが、世の中には、このコンプレックスを克服するということを、人生最大の目的にしてしまっている人すらいるような気がします。それってどうなんでしょうか。


例えば、容姿が悪くてもてない男子学生A君が、モテたさに高学歴を得ようとして、東大を目指して猛勉強するとか、体格が小さい男性であるBさんが、それを少しでもよく見せようとして、体を鍛えたりするとか、いうようなことってありますね。率直に言って、僕はそういう生き方には共感しません。そう言うと、ある人はこう言うかもしれません。
「欠点のある人がそれを克服しようとして何が悪いんですか?一生懸命やることの何が悪いんですか!」
それに対して言っておくと、その点についてはおっしゃる通りで、間違ってないと思います。僕が問題に思っているのは、その点についてではないんですよね。そうではなくて、僕が問題にするのは、彼らのその生き方(そのコンプレックスを克服すること)に、彼らの大義が見出せないということです。要するに、その人は、誰のために、それ(コンプレックスの克服)をしようとしているのかということです。


例えば、もし、A君が、弁護士になって困っている人を助けたいから、東大法学部を目指すというのなら分かるのだけれども、彼が上のようなモチベーションで頑張ったところで、世の中にとって、何の価値があるのだろうか。あるいは、例えば、ある背の低い人が、高いお金を払って底上げ靴を買って、自分の背を高く見せたところで、その人以外の人たち、すなわち世の中にとって、何の価値があるのだろうか。あるいは、ある容姿の醜い人が、全財産を美容整形につぎ込んだところで、世の中にとって、何の価値があるのだろうか。若い頃に、コンプレックスを克服するために頑張ったことが、その人の人生において役に立つということはあるかもしれないが、それ自体が人生の目的になってしまっては、人生が本末転倒していると思う。


逆にこう考えてみるといいかもしれない。例えば、今、目の前に川があって、溺れておる人がいるとしますね。そうしたときに、その人を助けるために、自分の容姿が悪いことや背が低いことで、少しでも不都合なことってあるだろうか。容姿が悪いからと言って、人助けが出来ないだろうか。そんなことはないんじゃないか。


僕は思うのだけれども、ある人が、その人のコンプレックスを克服するために、自分の時間や労力やお金を費やす余裕があったら、世の中のためになることを考え、そのために使った方がよいと思う。何故なら、その人がそのコンプレックスを克服したところで、ただそれだけのことならば、その人のためにしかならないのだから。その上で、最初に話を戻して言うと、上のコンプレックスを克服することに一番最後までこだわる人は誰だろうか。それは、最初の「片翼の天使」ではないかと思う。コンプレックスという小さな片翼と、それを補えるかもしれない大きな片翼を持ち合わせた人。その人は、その大きな片翼を一生懸命に羽ばたかせるのだけれども、その先に待っているものは何だろう。いや、それ以前に、そもそも、その人は、それを、何のために、あるいは、誰のために、しているのだろう。結局は自分自身のためではないかしら。そして、仮にそれが成功したところで、何になるのだろう。誰が益するのだろう。結局、その人自身が「原状回復」するだけの話なのではないかしら。僕はそれに対して、以下の言葉を述べる。
「感心すれど、感謝せず。」


最後に、コンプレックスについての、僕の持論を述べておくと、以下の通りです。
「コンプレックスは、解消するものではなくて、気にならなくなるものである。」
背が低くて、それを気にしている人は、自分の背が高くなれば問題が解決すると思い込んでいる。でも、実際はそうではないですよ。実は、背が低いことが問題なのではなく、背が低いことを気にしていることが問題なのではありませんか。本当の解決策は、背が低いことが気にならなくなることではありませんか。であれば、気にしないでいられるような道をまず第一に求めるべきではありませんか。


中国の古典、「書経」に有名な言葉が出てきますね。
「玩物喪志(がんぶつそうし)」(珍奇なものを愛玩し、それにおぼれて大切な志を失うこと。(三省堂))
僕は、どうも、コンプレックスって、実は、飛び切りの玩物のような気がする。そして、そのコンプレックスという名の玩物こそが、人の志を失わせる元凶なんじゃないかしら。