あるところに、Aさんという人がいました。あるとき、Aさんが歩いていると、友人のBさんを見かけました。そこで、AさんはBさんの肩を叩いて、呼び止めました。すると、Bさんはびっくりして、しゃっくりを起こしました。その後、Bさんのしゃっくりは止まらず、1時間以上も続きました。ようやくおさまると、Bさんは怒って、Aさんに言いました。
「君のせいで、しゃっくりが止まらなくなったじゃないか!」
実は、Bさんはひどいしゃっくり持ちだったのです。


また、あるところに、Cさんという人がいました。あるとき、Cさんが歩いていると、友人のDさんを見かけました。そこで、CさんはDさんと雑談をしていました。その際、CさんがDさんについて他愛ない冗談を言ったところ、Dさんがすっかり気を悪くしてしまいました。そして、Dさんは怒って、Cさんに言いました。
「何でそんなことを言うんだ。僕はひどく傷ついたじゃないか!」
実は、Dさんには内心でひどく気にしていることがあって、Cさんの何でもない発言がそれに触れてしまったようです。


そんなことを考えてみたときに、僕は思うのですけれども。最初の例において、Bさんのしゃっくりが止まらなくなったのは誰に原因があるのでしょうか。それは、Aさんではなくて、Bさん自身ではないかしら。Bさんがしゃっくりを起こしたのは、AさんがBさんの肩を叩いたからです。しかし、それが一時間以上も止まらなかったのは、Bさんの体質に原因があるのであって、Aさんは関係ない気がします。もちろん、Bさんがひどいしゃっくり持ちであることを、Aさんが知っていたのだとすれば、彼も気をつけるべきだったのかもしれませんが。


それは、Dさんの場合も、同様かもしれません。我々は他人と話をしていて、不意に相手の心の傷に触れてしまうことがあります。しかし、中には、何でそんなことで気を悪くするんだろうかと思えることもあるようです。その場合、どこまでが触れた側の責任で、どこまでが触れられた側の責任なのでしょうか。一概には言えませんが、ときには、触れられた側の心の鍛錬が足りないだけ、ということもあるような気がします。


世の中には、心の中に深い怒りや憎悪を溜め込んでいる人がいますね。で、ときどき、他人がそれに触れてしまい、それが一気に噴き出すということがあるかもしれません。その場合に、噴き出した側は、噴き出させた側に、その責任を求めるかもしれません。しかし、実際には、それは必ずしも正当な主張ではないかもしれません。ある人が長年かけて溜め込んだ憎悪や怒りはその人自身によるものであって、たまたま触れてしまった人は直接の関係はないのが普通です。


もしある人が心の中にそういったものを抱えており、しばしば他人とトラブルになるようであれば、その人はそれを素直に受け止めて、見つめなおした方がよいでしょう。あの人がああ言ったから、この人がこう言ったからと、内心の憎悪を小出しにしていても、その人にとって、根本的な解決にはなりません。それよりも、「何故、自分の怒りは止まらなくなったのか?」を考える方が先だろうと思います。


というようなことを、今日、逗子の海岸を歩きながら考えました。