ペシミズム。要するに悲観論であって、この考えにとらわれておる人が、いわゆるペシミストじゃね。
(ペシミスト・・・物事を悲観的に考える傾向の人。悲観論者。厭世家。)
こういう人について、ヒルティが以下のように言うておるね(*)。


「ペシミストたちを言葉で転向させようとして、無駄な骨を折らないがよい。彼らはそれに反駁してくるし、またそのような言葉の争いになかなか負かされず、その上、出来れば相手の人びとから人生の喜びを奪うことが、ペシミストたちに特別な満足を与えるものだ。なぜなら、人間は不満の中でも、やはり仲間が欲しいからである。できれば、彼らによりよい生活を見せてやりなさい、そして彼らとの言い争いはやめるがよい。人生についての彼らの見解は、彼ら自身にとっても世の中全体にとっても有益ではないが、でも、そのような考え方もありうることだけは、あっさり認めてやりなさい。また、彼らから離れることの出来ない"義務"があるならば、辛抱づよく彼らを我慢しなさい。彼らの考えを変えうるのは神だけであって、われわれにできることではない。」


これは、ペシミストについての、ペシミストではない人から見た見方じゃね。わしは、ペシミストと呼ばれる人が救われる方法は、上のヒルティのように、ペシミストについて客観的な見方が出来るようになることじゃなかろうかって思うんじゃ。なんでかいうたら、ペシミストを客観的に見られるのは、ペシミストじゃない人じゃろうから。実際、もし、あるペシミストが、上のような見方が出来るんじゃたら、そのひとはもうペシミストじゃなかろう。ほいじゃが、こういう見方が出来んのが、ペシミストなんじゃのう。


ところで、ヒルティも言うとるように、ペシミストの中には議論を挑んでくるもんもおるよのう。わしもこういうブログを書いておると、ときどきペシミストらしい人から議論を挑まれたりすることがあるわのう。ほいじゃけど、わしも、やっぱり、そういう人と「いかに人間は幸福になれないか」について議論するのは面倒じゃのう。そがあな議論しても、わしには、失うもんはあっても、得るもんは何もないんじゃけんのう。ほいじゃけど、なんでペシミストがそがあな議論をぶつけてくるんかっちゅうたら、その人なりに救いを求めておるからなんじゃろうのう。また、その人が、それをある人にぶつけるのは、その人なりにその人のことを見込んでおるからなんじゃろうのう。ほいじゃけん、もし、あるペシミストの人が、わしに議論をぶつけてくるんじゃったら、わしもその人に何かを言うてやろうかと思うんじゃ。その人はわしのことを見込んでくれておるのかもしれんから。ほいじゃけど、個人的な経験から言うたら、こういう場合において、その人に何かしら言うたところで、結局のところ、その人はこちらの言葉を逆手にとるばかりで、言うことを聞いちゃくれんわのう。それよりも、わしは、その人に、わしの楽しい暮らしを見せたげたほうがええんかのう。
わしの暮らしは楽しいんじゃ。(^ω^)
ほいでのう、その楽しさには特別な資格は要らんのじゃ。例えば、湘南の海岸を裸足で歩いておるだけで、わしは十分楽しいんじゃけん。それぐらいのことじゃったら、誰でも出来るじゃろ。いろいろ言うたけれども、結局のところ、わしが、ペシミストの人に言うてあげられるのは以下のことなんじゃのう。


他人の幸福を正視する勇気を持ちんさい。