大分前ですが、ある人から僕のブログに対して、コメントをいただきました。そのコメントの内容は、何というか、言葉の塊みたいなコメントでした。で、そのコメントをくれた人は全然知らない人だったので、なんとなくその人のブログを開いてみました。すると、やっぱり、その人のブログ全体が頭のてっぺんから足のつま先まで、難解な言葉の塊のようなブログでした。僕は面倒くさくなって、ひとつも読み終わらないうちにそのブログを閉じてしまいました。


僕は哲学的な思索をするのが好きなんですけど、その結論に至るまで、どんどんと言葉を詰め込んでいくのって好きじゃないんですよね。むしろ逆で、途中経過はともかくとして、最終的には、言葉はどんどん削ぎ落としていかなければならないんじゃないかと思うのですが。僕は思うんですけど、言葉が多すぎる人の頭の中って、例えて言えば、モノでいっぱいになった部屋みたいなものですね。その部屋の中にはいろんなモノがあって、住んでいる人は一見不自由しないように見えるんだけど、実際にはモノ自体が邪魔で身動きが取れなくなってたりするんじゃないでしょうか。そういう部屋に住んでいる人は、モノに不自由しないのと引き換えに、空間に不自由しているんじゃないかと思うわけですが、言葉が多い人というのもそれに似ているような気がします。ある人の頭の中に、言葉が多いということは、それだけ言葉のない空間が少ないということです。


よく言われることですが、真理というのは、結局のところ、言葉では言い表せないものですね。そう言う意味では、ただひたすら難解な言葉が大量に並んだ文章よりも、一見、何でもない子供でも理解できるような寓話や比喩、詩の方がよほど的確に真理を表現してたりします。ところで、世の中には、こういう分かりやすい話を、簡単に侮る人がいますね。その人は「なんだ。こんな話だったら、俺だって考え付くぜ」と思ってるのかもしれません。しかし、実際のところ、「俺にも分かる話」は必ずしも「俺にも考え付く話」ではないんですよね。これは、例えば、発明でも、同じことが言えますね。「こんなの、俺でも考え付くぜ」というのが、案外、考え付かないんですよね。誰でも気付きそうで、言われてみないと誰も気が付かない。そういうところに、世の真理はあるのかもしれません。


さて、僕は言葉の定義って大切だと思います。何故なら、それは無駄な言葉の重複を省くから。無駄な言葉を省けば省くほど、言葉が少なくなって、人間の頭は軽くなります。頭が軽くなるということは、それだけ頭の中にスペースが出来るということです。そのスペースの中においてこそ、人間は初めて真の思索活動をすることが出来るのだろうと僕は思います。真の思索活動、すなわち「瞑想」ですね。(逆に言って、瞑想ではない思索は、真理の探究という意味では偽です。)実際のところ、言葉の多い人には、例えば、ユーモアのない人が多いですね。おそらく、その人の頭の中には、ユーモアというモニュメントを置いておくスペース、すなわちメモリ領域がないんじゃないでしょうか。例えば、コントでは、間(ま)が大事だといわれますね。頭に余裕のない人が間を空けるのは難しいだろうと思うのです。


僕は思うのですが、寓話のような的を得たお話は、頭の中のそういった言葉のない空間がなければ、生み出すことは出来ないでしょう。何故ならば、寓話の真髄というのは、言葉で表せないことを、言葉で間接的に表すことにあるからです。ところで、寓話と聞くと、これまたすぐに揚げ足をとる人がいますね。例えば、「蟻ときりぎりす」に対して、「きりぎりすが音楽家として成功したらどうするんだ」と言うような。僕はその人も何か勘違いをしているような気がします。寓話に対して、言葉の上で揚げ足を取るのは非常に簡単なことですが(それはあなたでなくても、誰でも出来る)、その狙い自体、そもそも「的外れ」でしかありません。何故なら、揚げ足を取られるところの、言葉で表されている部分は、結局のところ、寓話の真髄ではないから。いわゆる「暖簾に腕押し」ってやつですね。


真理、瞑想、寓話(比喩、詩)は、黄金の3点セットです。


結局のところ、言葉の多い人って、その人がどんなに頭のいい人であったとしても、そのままの状態ではいつまでたっても真理にたどり着くことはないでしょう。要するに、君は路線を変えたほうがいいよってことです。