昔、こういうことがありました。ある日、僕は、A銀行から、B銀行にお金を振り込まなければならなくなりました。しかし、当時、僕は世間知らずで、お金の振り込み方がよく分かりませんでした。それで、たまたま通りかかったところにB銀行があったので、相談に入りました。すると、中年男性の行員がうれしそうな表情でやってきました。
「いらっしゃいませ。どういったご用件でしょうか。」
それで、僕が、
「A銀行からお金を振り込みたいのですが。」
と質問したところ、その人の態度ががらりと変わりました。
「そんなこと、A銀行に聞いてよ。」


また、ある日のことでした。会社で僕の眼鏡の淵のネジが取れてしまい、眼鏡がかけられなくなってしまいました。困った僕は昼休みにのび太くんのように目を細めて駅前まで行きました。すると、駅前のショッピングモールの中に個人経営の眼鏡屋がありました。で、そこにいた店長さんらしき中年男性の人に、眼鏡を取り出しながら、説明を始めようとしました。すると、その人は手のひらを突き出してこちらを制止し、犬を追い払うように手を振って、「帰れ」のしぐさをしました。それで、僕は、また目を細めて、会社に帰っていきました。その後、安全ピンをねじの代わりに通して、一日代用しました。


これらに対して、当時、僕は内心でひどいなあと思いました。しかし、その後、しばらく考えてみて、仕方がないかなとも思いました。向こうも商売でやっているのですから。


で、本題に入りますが。書店に行くと、いわゆるビジネス指南書ってありますね。「使える人脈の作り方」とか、「非情な社長の会社ほど経営がうまくいく」みたいな本。こういう本に書いてあることは、ビジネスマンや個人経営者にとっては、なかなか有益なものなのかもしれません。しかし、僕は思うのですが、こういった本に書いてあることは、あくまでもビジネスの世界における話であって、それ以上のものではないのではないような気がします。世の中には、人脈作りという言葉がありますね。僕は昔から、この人脈作りというものについて、疑問に思うところがあります。一般にビジネスの世界において人脈作りというものはありうると思うのですが、少なくとも個人的な付き合いにおいて、少なくとも作為的に人脈作り、もっと言えば、人脈の管理をするのはあまり善いことではないような気がしています。


個人的な話になりますが。大学の頃、僕の知り合いでAさんという人がいました。Aさんはとても素敵な人で、明るく、面白く、有能で、友達がたくさんいました。ほとんど非の打ちどころのない人でした。また、その友人たちがAさん同様に有能で素敵な人たちばかりでした。で、僕も、Aさんが大好きで、Aさんのようになりたいと思っていたので、Aさんと友人付き合いをしてもらっていました。ただ、僕は彼らほど、魅力的でもなければ、有能でもありませんでした。


ところで、ある日、ちょっとしたことでAさんと行き違いが生じました。その件というのは、たいした話ではなく、またお互い様という感じのことでした。しかし、僕はAさんとの付き合いが大切なので、こちらから謝り、仲直りできるように頑張りました。ところが、Aさんの方は逆で、それ以来、がらりと態度が変わり、ほとんど口をきいてくれなくなりました。それどころか、些細なことでいちいち僕の揚げ足をとるようになりました。

「君のこういうところが気に入らない。」

というような話を並べるのです。それらは確かに正論なので、それを改めようとするのですが、そういうこちら側の努力などまったく見ていませんでした。何か、こちらのことを否定する材料を探しているような感じでした。ようやく、僕は気がつきました。Aさんは僕のことを嫌いになったんだろうな、僕とはもう付き合いたくないんだろうなと。そこで、やむを得ず、僕もAさんに対して声をかけることを止めたところ、それ以来、Aさんから何の連絡もなくなりました。

ところで、その後、僕はAさんについて考えていて、あることに気がつきました。何かと言うと、Aさんの人脈って不自然なのです。なんというか、「虫食いひとつない農薬野菜」のようによく出来ているのです。具体的に言えば、Aさんの周りには、嫌な人、無能な人、どうでもいい人が、ひとりもいないのです。Aさんの周りにいる友人は、いつも、魅力的な人、有能な人、人当たりのよい人、素敵な人ばかりなのです。それは、「手入れの行き届いた庭」のように見事なのです。僕自身、昔はそれを無邪気に「素敵だなあ、素敵な人の周りには、素敵な人たちが集まってくるものなんだなあ」と感心していました。しかし、改めて考えてみると、それは変ですね。Aさんが魅力的な人であれば、その周りにはいろんな人が集まってくるはずです。中には、有能な人もいれば、無能の人もいるはずです。魅力的な人もいれば、そうではない人もいるはずです。ところが、何故か、いつもAさんの周りには、有能な人、魅力的な人しかいないのです。


そこで、Aさんはともかくとして、一般論として考えてみるのですが、世の中には、意識的に自分の人脈を管理している人って、いるんじゃないかしら。つまり、人脈作りというものを常に意識していて、積極的に友人の取捨選択を繰り返している人。例えば、あるところに、ある魅力的な人がいて、いろんな人が集まってくる。その集まってくる人間のうち、相手が、使えない人、気に入らない人だと分かると、その人たちに対してはがらりと態度を変えてしまう。そうやって、彼らに対して取り付く島もない状態にしておいて、そういった人たちとの付き合いは積極的に切って捨ててしまう。それを繰り返しているうちに、結果的に手元に有用な人ばかりが残る。そして、結局は、その人にとっての「使える人脈」が出来上がる。世の中には、そういうことを経験的によく知っていて、それを意識的に繰り返している人っているんじゃないかしら。要するに、「人脈作りマニュアル」みたいなものを持っていて、積極的に実践している人っているんじゃないかしら。僕自身が、そういうことをする発想がないので、僕は、長い間、そのことに気がつかなかったのですが。


また、ついでに思うのですが、もしかすると、こういうことをする人の友人は、やはり同じことをしている人なのかもしれませんね。類は友を呼ぶといいますから。無能な者、足手まといを排除して出来た、有能な者同士の人脈。そういうものが世の中には存在するような気がする。いわゆる勝ち組集団というやつでしょうか。


そういうことをするのがよいのか、悪いのか、僕にはわかりません。ただ、僕は、個人的には、意識的に人脈を管理したいとは思いません。人間関係というものは、来るものは拒まず、去るものは追わずでよいと思います。慕ってくる者がいれば受け入れ、困っている者がいたら助ければよいのではないかしら。少なくとも、気に入らない者に対して、積極的にシカトしたり、わざと気まずい雰囲気を作ったりして、切り捨てたりしてまで、人脈を管理する必要はないと思います。僕は、人間関係において、そんな野心を持ちたくないです。


最後にもうひとつ。
「桃李言わざれど下自ら蹊を成す」という言葉がありますね。
この言葉は人望のある人を桃李に喩えたものですが、上のように考えてみると、その桃李を求めてきた人のうち、誰もがそれにあずかれるわけではないのかもしれません。桃李の数に限りがある以上、中には、目に見えないところで、追い返されている人もいるのかもしれません。では、そうなってしまった人たち、つまり、有能な人脈に加わることができなかった人たちはどうすればいいのでしょうか。ある人はこう考えるかもしれません。
「僕も、魅力的な人に認められるように、魅力的な人間になろう。」
これはこれで間違いではないのかもしれませんが、それよりも、僕はこう思います。まず、そういう人たちは、そういう人たち同士で集まればよいのではないでしょうか。つまり、魅力的ではないもの同士、有能ではないもの同士で仲良くしたらよいのではないかしら。ただ、そのためには、お互いの魅力のなさ、無能さには目をつむり、お互いにない部分を補い合える能力が必要になるでしょうけれども。思うのですが、人間というのは、有能さよりも、まず、寛容さを身につけた方がよいでしょう。貧者の灯火というのでしょうか、長い目で見れば、そうして出来た人脈の方がより輝くような気がします。