あるところに、Aさんという人がいました。Aさんが歩いていると、道端に百万円が落ちていました。Aさんはその百万円を懐に納めて、家に帰ると、それを警察に届けようか、ネコババしようか、と一晩中悩み続けました。そして、悩み抜いた末に、結局、ネコババしました。


あるところに、Bさんという人がいました。Bさんが歩いていると、道端に百万円が落ちていました。Bさんはその百万円を懐に納めて、家に帰ると、それを警察に届けようか、ネコババしようか、と一晩中悩み続けました。そして、悩み抜いた末に、結局、警察に届け出ました。


その後、二人は大変後悔しました。Aさんは、百万円欲しさに犯罪を働いてしまったことを後悔しました。Bさんは、正直に届け出たことで百万円を手に入れ損ねたことを後悔しました。


弱い人間というのは、気の毒ですね。悪いことをしても、善いことをしても、結局は後悔するのですから。そして、仮に逆のことをしていたとしても、結局は後悔していたのでしょうから。


「良心の呵責にさいなまれる」という言い方がありますね。Aさんの場合がまさにそれですが、では、Bさんの場合はどうなるのでしょうか。Aさんは悪いことをしなければよかったと後悔しているのですが、それに対して、Bさんは悪いことをしておけばよかったと後悔しているのです。しかし、その後悔する様子を見てみると、実は、AさんとBさんには何の違いも見出せません。そう考えてみると、実は、呵責自体に良し悪しはないのかもしれませんね。


ところで、上の例とは逆の例もありますね。ある日、Cさんは、百万円を拾って、ネコババし、何の後悔も覚えませんでした。ある日、Dさんは、百万円を拾って、警察に届け出て、何の後悔も覚えませんでした。上の例において、CさんとDさんは彼らと同じことをしたわけですが、ともに後悔を覚えませんでした。それはおそらく彼らの心が、善悪に関係なく、強かったからでしょうね。


ところで、上の心の弱い人と心の強い人の間には大きな違いがありますね。それは、その人の心が強ければ強いほど、逆のことをすることはないだろうということです。心の強い悪人は拾った百万円を決して警察に届け出ようとは思わないでしょうし、心の強い善人は拾った百万円を決してネコババしようとは思わないでしょう。それは彼らにとって、疑う余地のないことでしょう。


要するに、人間の心の善悪と強弱は別物なんでしょうね。そして、悪い人が苦しむのではなくて、弱い人が苦しむのでしょうね。そう考えてみると、人間にはやらなければならないことが2つありますね。

より善く生きること。
より強く生きること。

強くなろうとしないで、より善く生きることばかり考えていたら、その人の人生は後悔が絶えないでしょう。