昔、私の友人でとても素敵な人がいた。誰に対してもやさしくて親切な人だった。その人にはいつも栄光(glory)が輝いていた。私はその人が好きだった。何年か経って、私はその人とひさしぶりに再会した。久しぶりに会ったのがうれしくて、いろいろとお話をした。しかし、その人は、何かが変わっていた。その後、しばらくの間、お付き合いをさせてもらっていたのだが、やはり違和感がぬぐえなかった。それからしばらくして、私はようやく気がついた。その人にはかつての憐れみ(mercy)がなくなってしまっていた。


このとき、私はひとつのことを悟った。人間にとって、栄光と憐れみは同じものなのだと。栄光と憐れみの関係は、炎とろうそくの関係に似ている。ろうそくはそれ自体が輝くわけではないが、それ(燃料)がなければ、炎は輝くことが出来ない。かつて栄光で輝いていた友人が輝かなくなったのは、まさにそこにあったのだ。思えば、その人はとても憐れみ深い人だった。いろんなことに気付き、いろんな思いやりを形にすることが出来る人だった。私はその人のそばにいるだけで幸せな気持ちになれた。でも、数年ぶりに再開したその人にはもうそんな雰囲気がなかった。


一般に、栄光というと、イエスや仏陀のような偉い人に恒常的に差している光を想像する。しかし、栄光というものは、実際には、そういうものではないようだ。例えば、もしある人が聖人と噂される人の話を聞いて、その人のもとに駆けつけたとしよう。そうしたところで、彼はどこにでもいるような普通の人を見つけてがっかりするだけなのではないか。


私が思うに、栄光というのは、一般に考えられているよりも、ずっと主観的なものだ。それは、憐れみを受けた人の瞳にしか映らないものだ。かつて、私の瞳には、いつもその人の背後に後光が差して見えた。思えば、その頃、私はいつも隅っこでじっとしていた。そんなときに、私はその人にずいぶん助けられたものだった。私は、いつか、その人にお礼がしたいと思っていた。しかし、数年ぶりに会ったその人は、私のことなど何の興味もないという感じだった。なんというか、人間が殺伐としてしまっていた。ただひたすら、私は成功してやるんだ、という気迫ばかりが伝わってきた。残念だと思いながら、私はその人と美しい思い出にお別れをした。