料理の歴史というものを考えてみる。ある小さな村々があって、それらが集まって、国になった。やがて、その国には、その村々の料理がお互いに取り入れられた。で、それらの村々の料理はやがて一つの料理になった。つまり、その国の料理になった。やがて、国際化が始まり、国と国が交易したり、戦争をしたりするようになった。そうするうちに、それぞれの国に、いろいろな他国の料理が知られるようになった。例えば、日本において、中華料理が食べられたり、イギリスにおいてカレーが食べられたりするようになるなど。しかし、まだ、完全な国際化が達成されていない頃には、それぞれの国において、その国の料理はある種の権威を得ていた。そのために、母国の料理において、他国の料理の食材や技法を取り入れると、邪道として非難されることがあった。例えば、フランス料理において、醤油を使うのは禁じ手であるとか。しかし、今日のように交通機関が発達し、インターネットが普及し、国際交流が盛んになると、もうそういう考え方は通用しなくなる。それどころか、むしろそれぞれの国において、他国の料理の食材や技法が積極的に取り入れられるようになる。例えば、日本の懐石において、カルパッチョが出てきたり、フランス料理において、隠し味にみりんが使われたりするのは、何も珍しいことではなくなる。


で、この先の話は、現時点から見て未来の話になるが、いずれは世界料理のようなものが出来るだろう。そうなると、これまで、国単位で認知されていた料理は、世界料理の一ジャンルに過ぎなくなるだろう。つまり、フランス料理も、日本料理も、中華料理も、イタリア料理も、韓国料理も、世界料理の一ジャンルに過ぎなくなるだろう。


その上で、私は考えてみるのだが、宗教の歴史というのも、上の料理の歴史とだいたい同じような運命をたどるのではないか。例えば、中世の時代、ある国において、ある宗教がその国のほとんどすべての国民に信仰されていた。その状況においては、その国の人々はその宗教を信じるのが当たり前であって、他国の宗教はすべて邪教だった。その考え方に基づいて、宗教戦争が頻繁に起こった。しかし、今日の国際化社会においては、成熟した社会から順に宗教上の対立や排他的なこだわりはなくなってきているように思える。一昔前までは、特に宗教熱心ではない人たちの間においても、宗門意識というものがあったはずである。つまり、「うちは○○宗の××派である」という意識があったのだろうが、最近では、例えば、日本において、大分見られなくなった。それに伴い、他の宗教の教義に対する拒絶反応も少なくなってきているのではないか。「自分は仏教徒だから、聖書は一切読まない」とか、「自分はキリスト教徒だから、禅の意識について学ばない」といった考えが少なくなってきているように思う。むしろ、今日では、例えば、いろいろな宗教の共通性について、いろいろな立場から語られたりする。神秘主義を例に挙げると、仏教の禅、イスラムのスーフィズム、ユダヤ教のハシディズム、キリスト教のエックハルトなどのドイツ神秘主義における精神の共通性が、ここ100年の間で、キリスト教徒や仏教徒など、いろいろな立場の人たちの間で語られるようになった。そして、その論調も、段々我田引水なものではなくなってきているように感じられる。これには、やはり、国際化と情報化が影響しているのではないか。かつては、国を自由に行き来することが出来ず、(特に他国の宗教に対して)少ない情報の中で考えることしか出来なかったので、宗教もまたナショナリズムの色彩を帯びざるを得なかったのだろう。しかし、今日のように、インターネットで自由自在にいろいろな国の宗教についての情報が多角的に入手できるようになると、自然とナショナリスティックな宗門への帰属意識は薄らいでいくのではないだろうか。


そして、これからの宗教のあり方を考えてみると、上に述べた料理の一ジャンルのようなものに過ぎなくなるのではなかろうか。つまり、これからの社会においては、キリスト教、仏教、イスラム、ユダヤ教といった宗教は、フランス料理、イタリア料理、日本料理、中華料理といった料理のジャンル(あるいは学校における学科)と変わらなくなるのではないだろうか。ましてや、それぞれの宗教における、さらに細かい宗派にいたっては、郷土料理程度の意味しかなくなるだろう。そうなると、例えば、仏教徒が聖書の勉強をするとか、キリスト教徒が禅寺で座禅を組むのは何ら珍しいことではなくなるだろう。そして、かつての国際化以前の時代のような宗門ごとの帰属意識はなくなり、各宗派の体制側においても、あれは異端だ、これは邪道だというような審問もなくなるだろう。また、それぞれの宗教の教義を比較した場合における矛盾についても、現在ほど気にならなくなるだろう。それはちょうど、ニュートンの万有引力の法則とアインシュタインの相対性理論に相容れない部分があるとしても、そのために、どちらかしか認めない、学ばないというわけではないのと同じことだ。あるいは、例えば、日本文学が好きな人が、夏目漱石の思想と森鴎外の思想が相容れないからと言って、そのどちらの小説しか読まないということはないのと同じことだろう。考えてみれば、私たちは「鉄は熱いうちに打て」ということわざと、「急がば回れ」ということわざを比較して、どちらが正しいかについて決着を付けたりはしない。


では、未来の宗教はどうなるのか。これは、私のまったくの想像だが、おそらく、いつか、Wikipediaのような全人類が平等に参加することの出来る運営方式に自然と落ち着くのではないか。つまり、全人類が自由に参加できて、自由に発言できる場が実現し、そこにおいて、かつてのありとあらゆる宗教の良い点が取り入れられ、摂理に合わないものは、言い争ったりしなくても、自然淘汰されていくのではないか。それと同時に、一昔前に流行ったような、伝統宗教の教義を寄せ集めて作られた混教宗教的な新興宗教の類は廃れるだろう。つまり、新興宗教は、Wikipedia的な宗教に取って替わられ、誰も使わないエスペラント語に過ぎなくなるだろう、ということである。