馬鹿には見えない翼を、若い頃、僕は生やしていた。
僕はその翼がとてもお気に入りだった。
そして、いつも周りの人たちにそれを見せびらかせてやりたいと思っていた。


ところが、僕の翼を見ることが出来る者はひとりもいなかった。
そのうちに僕は自分の翼が周りの人たちには見ることが出来ないのだと言うことに気が付いた。
そう思ったとき、僕には周りの人たちが皆憐れな人たちに見えてきた。
そこで、周りの人たちが僕と同じように翼を生やし、それを見られるようになるにはどうすればよいか真剣に考えた。
そうすれば、皆が幸せになれるのだと考えたからだ。


そうして、僕はようやくその方法を見出すことが出来た。
それは自分を信じることであった。
そこで僕は彼らに対して自ら熱心に指導活動に乗り出した。
ところが、僕がそのことを誰に話しても、誰もその話を信じてくれない。
皆、鼻で笑って聞こうとしないのである。
そのとき、僕には、周りの人たちが心底気の毒に思われた。
そして、同時にこう思ったのである。
僕の翼は馬鹿には見ることが出来ないのだと。


それから、僕はある日仲間をあきらめて、一人で空へ旅立つことにした。
僕は一人大空を羽ばたくのだと。
崖の上に登り、太陽の光を浴びて、僕は思い切り空へ飛び出した。


そうして、僕は見事に墜落した。


おかしい、何故そうなるのだろうか。
僕には翼が生えているのではなかったのか。
そう思って、改めて背中を振り返ってみた。
すると、確かに僕の背中には羽が生えているのである。
では、何故、飛べないのだろうか。


いろいろと考えているうちにようやく分かった。
僕の翼はこの世のものではないのだ。
だから、この世のものである他人の肉眼には映らず、空気という物質を掻き分けて大空へ羽ばたくことも出来ないのだと。
そう考えて、僕はようやく納得した。
それから僕は地上を這いまわりながら、細々と暮らすことにした。


さて、他人の目には見えず、空を飛ぶことも出来ない翼。
そんなものに何らかの価値があるのだろうか。
あるのである。


この翼を持つ者は、この翼を見ることが出来るのである。
この翼を見ることが出来る者は同じ立場にある者をお互いに認識することが出来るのである。
仮に、僕の目の前に1000人の人間がいたとしよう。
そのとき、僕はその中に紛れ込んでいるたったひとりの翼の生えた人を見つけ出すことが出来るのである。
そして、相手も僕のことを見つけ出すことが出来るのである。
そして、馬鹿には見えない翼を生やした者同士で、お互いを称えあうことが出来るのである。


馬鹿には見えない翼。
人はそれを「自惚れ」と呼ぶ。
しかし、それは創造の源泉でもある。
(自惚れない創造者はいない。)