あるところに、二人の幼稚園児がいた。二人はそれぞれ自転車を持っていた。平均的な家庭の子であるA君は自分の自転車に普通の補助輪をつけていた。金持ちの家庭の子であるB君は自分の自転車に高性能な補助輪をつけていた。B君の補助輪はショックアブソーバーでも付いた特注品だったのだろう。それで、B君は自分の自転車の補助輪がいかに優れているかについて、A君にいつも自慢していた。それで、A君は恥ずかしくなって、彼はこう考えた。
「こんな粗末な補助輪をつけているから、からかわれるんだ。よし、僕は自転車を乗りこなして、補助輪なしでも自転車を乗れるようになってやるぞ。」
そして、A君は一生懸命自転車に乗る練習を重ねた結果、上手く乗れるようになったので、自分の粗末な補助輪を外してしまった。すると、それを見た別の幼稚園児のC子ちゃんは言った。
「A君は補助輪がなくても自転車に乗れるのね。すごいわ!!」
すると、B君は言った。
「C子ちゃん、見てみて。僕の自転車にはこんなカッコいい補助輪が付いているんだよ。」
すると、C子ちゃんは言った。
「B君は補助輪なしじゃ走れないの?かっこ悪い!」
B君はC子ちゃんにそう言われて、恥ずかしくなってしまった。
「上のたとえ話の意味を説明してください。」
「上のたとえ話において、自転車は精神、自転車に乗れないのは精神的未熟、補助輪はそれを補うための能力である。粗末な補助輪が付いているよりは、豪華な補助輪が付いている方がよく、豪華な補助輪が付いてるよりは、補助輪がない方がよい。」
有能さは、精神的未熟に対する補助輪としてよく機能する。有能な人や特殊技能を身につけた人は、その能力を必要とする人たちからちやほやされる。そして、少しぐらいわがままを言っても、彼らの間では許される。しかし、結局のところ、有能さとは心の補助輪に外ならない。それは精神の未熟さをよく補う。世の中に自分がいかに有能な人間であるかについて得意げに語る人がいる。その人は、(おそらく本人は気がついていないのだろうが)、自分がいかに立派な補助輪を付けているかについて自慢しているのである。有能さを誇る人間は、見方を変えて言えば、いまだに心の補助輪が取れていない人間である。本当に立派な人間とは、補助輪を必要としない人間である。世の中は有能さで渡るものではない。有能な人が偉いのではなく、有能さを必要としない人が偉いのだ。