信心銘について。


以下の原文、書き下し文、翻訳は「信心銘拈提を読む」(東隆眞著)からの引用。




原文:「至道無難唯嫌揀択」


書き下し文:「至道(しいどう)、難(かた)きこと無し、唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う」


訳:「至道すなわち最高の道をえることは、むずかしいことではない。ただ、えりごのみをすることを嫌う。」




「至道」とは、「大辞泉」によれば、以下の二つの意味がある。


1 人のふみ行うべき最高の道。この上もないまことの道。


2 その道の奥義。


なお、「大辞泉」では、読みを「しいどう」ではなく、「しどう」としている。また、「大辞林」によれば、古くは、多く「しいとう」とのこと。



最近、私はこれと同じことをしばしば感じる。


悟りの境地と言っても、そんなに難しいものではないのではないか。


現代の色々な哲学者や宗教家があれこれと難しいことを唱えるけれども、それらが仏陀やキリストや老子などの教えを越えているようには思えない。


むしろ、大切なのは、受け止め方にあるのではないか。



以前に、何度か書いたけれども、私は日本人と韓国人のハーフである。


ついでに言えば、母方の祖父は中国系である。


’90年代以降、私は、日韓や日中で歴史認識について激しく議論がされているのを見ていた。


日本人も、韓国人も、中国人も、それぞれ自説を唱えるのだけれども、混血の私はいつも違和感を覚えていた。


日本人の意見には韓国人の私が首をひねり、韓国人の意見には日本人の私が首をひねる。


個々人の主張が正しいかどうか分からないが、いつも不可解に感じるのは各自の主張の偏りである。


それぞれ正しそうな意見が数種類並んでいて、それぞれが相容れないのである。


それらの主張の偏りは何によるのか、といえば、やはり彼らの自国に対する偏愛から来るのではないか。


偏愛から、結論が決まり、結論を通すために、あとから理屈がとって付けられる。


それではいつまで立っても正しい結論に至ることは出来ないのではないか。



歴史認識において大切なのは、


「いかに正しい視点を選んでものを見るか」ではなくて、


「いかに多面的にものを見るか」ではないか。


ある歴史認識が正しいかどうかは、視点の角度よりも、全体像の立体感で決まるのではないか。


また、多面的にものを見ていれば、おのずと視点の良し悪しは判断がつくのではないか。


ある視点が正しいかどうかはあとから決まるのであって、最初から決めていてはいけない。



単眼よりも複眼。


これは歴史認識に限らない。


政治や宗教、その他においても、同じだろう。


最初にイデオロギーや宗派というものを決めてしまい、それに沿うように理屈をこねるから、他人と無用に対立し、相手の長所を取り入れられずに自分自身の成長もそこで止まってしまうのではないか。



もし、私が政治家ならば、イデオロギーは持たないだろう。


もし、私が宗教家ならば、宗派には属さないだろう。



私は、揀択に対して、嫌うというよりも、首をひねる。



2009 (c) toraji.com All Right Reserved.


toraji.comの本の目次
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10059286217.html


これまでの全作品リスト
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10153182508.html