愚痴について。弱音についてでもよし。


以前にも何度か書いたが、世の中には自他を問わず愚痴を言うことに嫌悪感を示す人がいる。


なんというか、「愚痴=絶対悪」説とでも言えそうな言動にしばしば出会う。


私はどうもそれに疑問を感じる。




例えば、こう考えてみよう。


人生は「マラソン」に似ているが、これに「愚痴」をあわせて考えてみると、世の中には4種類の人間がいる。



1.愚痴を言わずに完走する人


2.愚痴を言いながら完走する人


3.愚痴を言わずに途中で降りる人


4・愚痴を言いながら途中で降りる人




上の組み合わせを例にすると、「愚痴=絶対悪」説の起こりは、1.と2.、あるいは3.と4.を比較することによって、生じるのではないか。


「愚痴を言わずに完走する人」と「愚痴を言いながら完走する人」を比べれば、前者の方がよいに決まっており、「愚痴を言わずに途中で降りる人」と「愚痴を言いながら途中で降りる人」を比べれば、はやり前者の方がよいに決まっている。


しかし、その比較はあまり意味がない。


1.の人は完璧であって、特に問題にするところがない。また、4.のような人も、帰って問題にするまでもない。


また、1.や4.の人は、2.や3.の人に比べると、かなり少数派であろう。


むしろ、人生において、多数を占めるのは、2.か3.の人であろう。


そう考えてみると、私は、2.と3.を比較すべきではないかと思う。


つまり、「愚痴を言いながら完走する人」と「愚痴を言わずに途中で降りる人」はどっちがよいのかということである。


その上で言えば、私は、(実際には色々なケースがあると思うが)、愚痴を言わずに途中で降りる人間よりは、愚痴を言いながらでも完走する人の方がよいと思う。




ところで、「愚痴=絶対悪」説を唱える人自身はどんな人だろうか。


私は、3.ではないかと思う。


何故ならば、愚痴を言わないことを絶対視している人(完走することよりも、愚痴を言わないことを優先している人)は、上の1.から4.までの組み合わせのうち、3.だけだからである。


しかし、その点が明らかになりにくいのは、自他共に、愚痴を否定する人は、1.だという先入観を持っているからである。


しかし、1.の人にとって、同じように苦労して完走した2.は仲間であって悪く言う対象ではなく、4.はもはやかける言葉もないのではないだろうか。


(なお、愚痴を否定する人が愚痴を言うわけはないから、少なくとも、2.と4.は該当しない。)




では、何故、3.は愚痴も言わずに降りるのか。


いろいろなケースがあり得るが、一番大きな理由は、降りることが出来る立場にあるからではないか。




大学時代、何年も留年してぶらぶらしている先輩がいた。


しかし、いつも大きく構えていて、将来の不安を口にすることもない。


ある日、「先輩、大丈夫ですか?」と聞いてみると、次のような答えが返ってきた。


「大丈夫。俺の爺さん、○○(大手マスコミ)の会長だから。」


コネ入社が効くと言うのである。


そして、その先輩曰く、「愚痴を言う奴は嫌い」なのだそうであった。


これは極端な例だが、世の中には、自分の努力で世の中を渡っているような気持ちでいて、案外、自分が生まれ育った環境のインサイダーな情報に助けられている人は多いのではないか。




別の例だが、私は、大学を卒業して、最初にある外資系の企業に就職した。


その後、会社の経営が思わしくなくなり、色々な面で苦しくなってきた。


その頃、同期入社の半分程度が退社した。


私も退社を考えたことがあるが、色々と事情があり、踏み切れないでいた。


その頃、私は、毎日、内心で、苦しい、苦しいと思いながら、出勤していた。


そんなある日、退社した人のことを考えてみると、わりと関東に実家のある人が多いように感じた。


私の同僚が実際にどうだったのか知らないが、一般論として考えてみると、関東出身の人はそうでない人に比べて、関東において、再就職がしやすいのではなかろうか。


関東で生活していくことを前提として考えた場合に、関東に実家のある人は、明日退社しても、実家に帰れば、生活の心配もなく、じっくりと時間をかけて再就職活動をすることが出来るからである。


私は、若い頃、再就職に限らず、実家が関東にあると便利だと思ったことが何度かあった。


しかし、今、改めて考えてみると、そうでなくてよかったと思うことのほうが多い。


結果として、背水の陣を引けたからである。




私は、「愚痴=絶対悪」説は、愚痴も言わずに降りた人の自己肯定の裏返しのような気がしてならない。


愚痴を言いながらも、見苦しくがんばっている人間を否定すれば、愚痴を言わないかわりに、結果も出さずに降りた自分を肯定することが出来ると、その人は無意識のうちに考えているのではなかろうか。


しかし、人生において愚痴は、良くも悪くも結果ではない。


人生は、マラソンであり、ボクシングのようなポイント制ではないし、愚痴が減点の対象になるわけでもない。


(ただし、他人との共同作業において、愚痴が他人に対して悪影響を与えることは考慮すべきである。)


愚痴を言わないことを至上とすると、人生の目標を見失ってしまう。




誤解のないように重ねて言えば、以下の三者は、似て非なるものである。


α.私は愚痴を言わない


β.私は愚痴を言ってはならない


γ.私は他人が愚痴を言うのが許せない




別の抽象的なことを述べると、人間は愚痴に対して、以下の4つの状態を持ち得る。



A.未愚痴


B.親愚痴


C.反愚痴


D.無愚痴



人間は、A.から始まって、B.かC.を通って、D.に至る。


「愚痴」を「我」に置き換えて言えば、大事なのは「無我」であって、「反我」ではないのである。



ところで、そういう私自身は、愚痴に対して、どういう人間なのだろうか。


私は愚痴に対して、特に否定的ではない。


むしろ、愚痴っぽい人間ではないかと思っている。


しかし、冷静に考えてみると、私は愚痴を言った記憶がほとんどない。


会社の同僚に対しても、あるいは休日に会うマッサージ店の担当さんなどに対しても、特に愚痴を言った記憶がない。


言ったことがないとまでは言わないが、ほとんど言った覚えがない。


このブログでも、日常生活において遭遇した嫌なことについて、特に愚痴を書いた覚えがない。


私は、自分の人生において、案外、愚痴を言っていないのである。


また、その一方で、愚痴を言う他人を責めるつもりもない。


私は、いままで、B.のつもりでいたのであるが、気が付くと、D.になっていた。



もしかすると、私は、今日までの人生において、たまたま、愚痴を言い損ねてきただけなのかもしれない。


他人から見て愚痴を言わない人は、本人からすると内心では愚痴を言っているのかもしれない。


他人から見て愚痴を言う人は、本人からするとあまり深く考えないで言っているのかもしれない。


他人から見て他人の愚痴を非難する人は、本人からすると実は愚痴を言いたくて仕方がない人なのかもしれない。


(愚痴に対する非難がすでに愚痴に属しているということ。)


人生というのは、案外、そういうものなのかもしれない。



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