この世がある。


この世には物がある。


というよりも、物からなるのがこの世である。


物には価値がある。


物の価値は感覚器を通じて得られる。


感覚的に心地よいものが物の価値である。


目の見えない人にとって名画は何の価値もない。


耳の聞こえない人にとって名曲は何の価値もない。


ところで人間には感覚を通じないで得られる価値がある。



例えば、愛というもの。


愛されることには価値があり、愛することにも価値がある。


憎まれることは損害であり、憎むことも損害である。


我々は他人の愛を感覚器を通じて感じない。



例えば、自分の道徳的な価値。


誇らしい気持ち、名誉な気持ち、達成感。


善いことをしたあとは気持ちがよいという。


この気持ちのよさを得るのに感覚器を通じる必要はない。



この世の物の価値が感覚器を通じて得られるのだとすると、


それを通じないで得られる価値とは何だろうか。


この世以外から得られる価値、つまりあの世の価値。


物からならない世界をあの世という。


そう考えてみると、一つの事実に気が付く。


それはあの世と死後の世界は似て非なるものであるということである。



世間では、自分が生きている間の世界がこの世で、死後に向かう世界があの世だと考えている人が多い。


この世とあの世は壁を隔てて存在していて、その間を行ったり来たりしていると考えている。


もしそうだとすれば、人間は生きている間はあの世にいないことになる。


本当にそうなのだろうか。


むしろ、この世とあの世は重なり合って存在しているのではないだろうか。


例えるならば、同じ被写体から普通の写真とレントゲン写真が撮れるように。


我々はこの世にいながら、実はあの世にもいるのではないか。


もし魂が在るのならば、それは死後になって初めて生じるものなのだろうか。


もし魂が在るのならば、それは生存中にもあるのではないか。


魂は生きているうちからすでに在る。


魂は肉体に結びつき、いずれは肉体を離れる。


しかし、その魂がそもそもこの世のものではない。


その魂が生存中にこの肉体とともにあるということは、我々はあの世とこの世を同時に生きているということだ。



私はこの世の価値ではなくて、あの世の価値を求める。


そして、それはけっこう簡単に手に入る。


ただ、注意しなければならないのは、それをこの世の価値と交換することはできないということである。


物々交換は物と物との交換によって成り立つ。


なお、売買も結局は物々交換の延長である。


物ではないモノを物と交換することは出来ない。


モノで物を得ることはできないし、物でモノを得ることもできない。



なお、物に本物と偽物があるように、モノにも本物と偽物がある。


オレンジジュースを考えてみよう。


果汁100%のジュースは本物であり、無果汁のジュースは偽物である。


愛を考えてみよう。


恋人から愛されるのは本物であり、恋愛小説を読んでいるときのときめきは偽モノである。


善いことをした後の気持ちよさを考えてみよう。


老人に席を譲った後の気持ちよさは本物であり、映画で老人に席を譲るシーンを見たあとの気持ちよさは偽モノである。


本物と偽物(モノ)の違いは、滋養があるかどうかである。


滋養のあるモノを感覚を通さずに得られる幸せ。


一文にもならない私の幸せ。




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