現代社会には心の病が多い。○○症や××症候群など、いろいろな名前を聞く。何故、こんなに心の病が多いのだろうか。その最大の原因は、個人主義の増加にあるのではないだろうか。


世の中には個人主義者と呼ばれる人がいる。歴史的に見ると、個人主義者は、以下の2種類に分類できる。


1.未成熟社会における個人主義者


2.成熟社会における個人主義者



上のように分類した場合、前者の個人主義者は問題がある。何故なら、社会が成熟していない、つまり社会制度が十分に整備されていない社会において、その整備のために尽力するのは、その社会で暮す人々の半ば義務であるのにもかかわらず、1.の個人主義者はその義務を放棄しており、自分のことしか考えていないからだ。


では、後者はどうだろうか。例えば、今、ここに、成熟した社会があるとしよう。その社会では、社会制度が整えられており、弾圧も内戦も組織的な差別もない。交通もよく整えられており、福祉制度も充実している。失業率も低く、人々は暮らしに困ることがない。もしそんな社会があったとしたら、その社会に暮す人々はどんなことを考えて暮らすだろうか。おそらく、未成熟社会に暮す人々よりも、ずっと社会について考えることが少ないのではないだろうか。何故なら、そうする必要性が、前者に比べて、格段に少ないからだ。


だから、上のような成熟した社会においては、そこに暮す人々にとって、自分が個人主義者でいるのは、それを自覚しないぐらい、当たり前のことなのではないだろうか。今の社会において、社会を変えなければいけない、このままではいけないと真剣に考えている人がどれだけいるだろうか。それが、成熟社会のもっとも大きな問題を引き起こしている原因なのではないだろうか。


成熟した社会において、人々は、社会について心配しなくてもよい。だから、その分、個人的なことばかり考えて暮す。その人の心の中で、個人的な問題が大きな比重を占める。その結果として、未成熟社会だったら、気にすることもなかったような個人的なことが気にかかり始める。電車に乗っていると、隣の人の会話がうるさい、車内の匂いが気になる、同僚の些細な発言に傷つく、自分の容姿の欠点が気になる・・・。日常生活において、そんな、どうでもよいことが、敏感に、過大に感じられる。ほかに悩むこともないので、そういった個人的なことで悩む。そして、悩みはその人の心の中でどんどん大きくなる。しかし、それに耐えうるほどの心の鍛錬もないから、本人の心はそれを支えきれずに崩壊する。それは、ちょうど、体を鍛えることを面倒くさがっている人に筋肉がつかず、そのため、その人がたまに荷物運びをすると、たいして重い荷物でもないのに、すぐに疲れてしまい、苦しく思うのに似ている。肉体労働をしている人だったら、難なく運んでしまう荷物を運ぶことが出来ず、すぐに根を上げてしまう。今の世の中には、そんな人が多いのではないだろうか。


しかし、不思議なことに、人間は他人の心配をしているとき、自分のことがまったく気にならなくなるということもある。例えば、自分のことしか考えていない人が道を歩いていて、転んでひざを擦りむいたら、その怪我のことが気になって仕方がないかもしれない。その一方で、友人が交通事故で大怪我をしたというので、慌てて見舞いに行こうとしている人が、その最中に転んで自分のひざを擦りむいても、まったく気にならず、急いで病院に向うということはあるのではないだろうか。人間は他人のことを気遣っているとき、案外、自分の不幸には気が回らなくなるものだ。


キリストも言っている。


「自分の命を得ようとする者は、それを失う。」(マタイ 10 39)



個人主義はそれ自体が心の病ではない。だから、それ自体を問題視する人は少ないのかもしれない。しかし、それが心の病をはぐくむ温床になるのだ。個人主義と心の病の関係は、土壌と雑草の関係に似ている。土壌がしっかりしていればいるほど、そこには雑草がどんどん生えてくる。地主が慌ててそれを抜いたり、刈ったりしても、いくらでも生えてくる。そんなことをしても、きりがないだろう。草は大地に根を張らなければ生きていくことが出来ない。魚は水の中にいなければ生きていくことが出来ない。同じように、心の病も、生きていくための条件を満たさなければ、存在することが出来ない。


心の病をなくす、一番よい方法はなんだろうか。それは、心の病の温床である個人主義を捨てることだろう。個人主義という土壌がなければ、心の病という雑草は根を張ることが出来ないからだ。



以前にも何度も書いたことではあるが、私の母は在日韓国人である。貧しい家庭に育ち、若い頃から満足な就職も出来ず、今も選挙権もなく、本名を名乗ることもなく暮している。私自身、何もない古いアパートから生まれ育ち、若い頃からいろいろなことを考えて暮していた。と言っても、どうすればこの私がその境遇から抜け出せるかということだけを考えて暮していたわけではない。もし、私が、そんなことだけを考えて暮していたら、ただの個人主義者になっていただろう。そうではなくて、私は、むしろ、どうすれば差別がなくなるのか、どうすれば日韓の友好が実現できるか、どうすれば祖国統一が果たせるかを考えて暮していた。


そう言うと、ある人は、「それで、お前は、どんな立派な成果を生んだのか」と問うかもしれない。それに対して、私は十分な回答をすることが出来ない。しかし、今になって考えてみると、若い頃にこういうことを考えて暮していたのは、少なくとも、自分にとっては幸せなことだった。何故なら、それらのことを考えている間、私は、個人的なことで悩まされることがほとんどなかったから。



話を戻すけれども、今日の日本のような成熟した社会においては、社会について考えることは極めて少ないだろう。少なくとも、幕末の時代や、太平洋戦争中や、全共闘の時代に比べれば、社会的なことについて考えることはずっと少ないだろう。あったとしても、そんなに深刻に考えたりはしないだろう。そんな今の日本の社会においては、個人主義が増加するのは必然的なことだろう。それゆえに、社会全体に個人主義的な考えが肯定的に氾濫するだろう。例えば、テレビのドラマにしても、雑誌の記事にしても、個人主義的な観点で作られたものが圧倒的多数を占めるだろう。やがて、私たちは、それらを話題にしなければ、お互いにそれらの話題についていけなくなるだろう。個人主義が当たり前とされる世の中では、個人主義を肯定しなければ、円滑な人間関係が営めなくなるだろう。個人的なことを考え、個人的なことで悩み、個人的なことを相談して、個人的な交際を維持する。ますます個人のことしか考えなくなり、個人的な悩みはその人の心の中でどんどん拡大していく。そして、知らないうちに、心が蝕まれていく。


自分について悩むのは、社会について悩むよりも、ずっと苦しいことだ。何故なら、その問題は自分自身の心の中にあり、誰もそこから逃げ出すことが出来ないのだから。もし、ある社会において、内戦が起こったら、国外に逃亡することも出来るだろう。しかし、人間は、心の中にある個人的な問題から逃げ出すことは出来ない。そして、あなたの個人的な悩みを理解してくれる人は多くはないだろう。何故なら、あなたの心の中にあるものを、他人は知りえないのだから。


社会問題に取り組む人は幸せだ。

彼らは多くの人と苦楽をともにすることが出来るのだから。

それは案外楽しいことなのではないだろうか。


個人的な問題に取り組む人は不幸だ。

彼は一人ぼっちでそれに取り組まざるをえないのだから。

それは苦しいことではないのか。


苦しいことが多い人は、一度自分の心の中を見つめなおしてみてはどうだろうか。ちょっとした心の転換で、ずっと楽になれるのではないだろうか。あなたの心の病の温床は何なのか、一度見直してみてはどうだろう。もしかしたら、その正体は個人主義にあるのではないだろうか。



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