彼は大田区の古いアパートに住んでいた。


彼のアパートに初めて行ったのは、ある土曜日のお昼だった。


隣の部屋からジミヘン崩れのうるさいノイズ・ギターが聞こえてきた。


「うるさくない?」


「ううん。」


彼は気にしていない様子だった。


部屋に上げてもらって、胡坐をかいて座っていると、窓越しに何かがうごめいていた。


彼がガラス窓をあけると、そこには白と茶色のビーグル犬がいた。


彼がその犬の頭をなでてやると、犬はうれしそうに尻尾を振っていた。


彼は僕の方を向いて言った。


「わんたん。」


「わんたん?」


彼は頷いた。


「わんたん。」


彼はもう一度頷いた。


その犬は彼のアパートの裏にある一軒家の飼い犬だった。


次の日の朝、布団から起きると、アパートと一軒家の少ない隙間から降りそそぐわずかな朝日を浴びた磨りガラス越しに、犬の茶色い鼻先が魚影のようにぼんやりと浮かんだまま行ったり来たりしてた。


「わんたんが来てるよ。」


そう言って僕が窓を開けようとすると、彼は制止した。


「窓を開けちゃ駄目。」


振り向いた彼の肌は雪のように白かった。


彼はTシャツを被ってから、窓を開けた。


犬はまたうれしそうに尻尾を振っていた。


彼の着たTシャツの背中には変な位置にてんとう虫のプリントがついていた。


「そのてんとう虫、何?」


「このTシャツ、大学の授業で作ったの。わざと変な位置に付けてみた。」


彼は美大卒だった。


彼が犬の頭を撫でているのを見て、僕は言った。


「わんたんTシャツを作ろうよ。」


「わんたんTシャツ?」


「そうだよ。わんたんのマークが入ったTシャツなんだ。それをたくさん作って、売るんだよ。俺たちのブランドを立ち上げるんだ。」


その頃、行き詰っていた僕は、四六時中、適当な夢を思いつくままに彼に語っていた。


「それも面白いね。」


彼はいつものようにまるで聞いてなかった。


次の週末、僕はTシャツくんを買って彼の家に持って行った。


「これでわんたんTシャツを作ろうよ。」


彼はあきれて言った。


「原画を描かないとね。」


それからしばらくの間、彼は犬の絵を描いたり消したりしていた。


デザイン画の中で、わんたんは横を向いたり、尻尾を振ったりしていた。


同じ頃、僕は仕入れ担当を自称し、適当なTシャツを探していた。


あるとき、吉祥寺の100円ショップで、100円のTシャツを見つけた。


僕は彼に言った。


「これでたくさん作ろうよ。」


彼は首をかしげた。


「こんな安っぽいTシャツ、誰も買わないよ。」


僕たちは店先で口論になった。


当時の僕には、安いTシャツと高いTシャツの区別が付かなかった。


その後、結局、彼が適当に描いたリンゴのTシャツが2枚出来ただけで、わんたんTシャツが作られることはなかった。



夢を描いては、実現しない。


そんなことを繰り返して、僕たちは20代の時間を無駄に過ごしていた。




(この文章は、おととしmixiに書いて、去年アメブロに転載したものから、「彼女」を「彼」に置換したのもの。


【小説】わんたん。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=291681735&owner_id=503188
2006年12月14日00:09

http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10038330040.html
2007-06-30 21:06:48)



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