【随筆】美しい文章について


美しい文章を書きたいと思う。


美しい文章は2種類ある。

ひとつは、美辞麗句で飾られた文章。

もうひとつは、美辞麗句がなくても美しい文章。

美辞麗句で飾られた文章は、いわば、化粧美人の文章だ。

美人は2種類ある。

ひとりは、すっぴんでも美人な人。

もうひとりは、化粧をすると美人になる人。

文章にも2種類ある。

すっぴんでも美しい文章。

美辞麗句という化粧をすると美しくなる文章。

美辞麗句によって美しく見える文章から、美辞麗句を取り除くとどうなるだろうか。

その結果は2種類に分けられる。

ひとつは、内容の醜い文章。

もうひとつは、内容のない文章。つまり、無内容な文章。

さて、美辞麗句がなくても美しい文章とはどんな文章だろうか。

それは、心の美しい文章だ。

心の美しい文章とはどんな文章だろうか。

私はそれには2種類あると思う。

ひとつは、心の美しい人が書いた文章。

もうひとつは、心の美しい人について書いた文章。

両者は似て非なるものだが、ともに美しい。


例えば、こう考えてみよう。

あるところに、ひとりの心の美しい女性がいた。

彼女は結婚し、息子をもうけた。

ところが、この息子は悪い心の持ち主であり、若い頃にぐれて、非行の道に走ってしまった。

ところで、あるとき、この二人がともに文章を書くことになった。

母親は息子について。

息子は母親について。

それらの文章はともに美しいかもしれない。

母親が書いた文章は、心の美しい人が書いた文章である。

息子が書いた文章は、心の美しい人について書いた文章である。


例えば、私が自分の書いた文章を読み返してみる。

私は、私が自分自身について書いた文章を読むとき、必ずしも感心しない。

しかし、私が、私の母について書いた文章を読み返してみると、自分でも感心するほど美しい。

心の醜い自分が書いた文章なのに、醜い感じがしないのである。


心の美しくない人が、心の美しい文章を書きたかったら、心の美しい人について書いたらよい。




【随筆】何故、人は人を憎むのか?

今日、以下のようなニュースがありました。

韓国の遺族50人招き追悼式 旧軍人・軍属の遺骨返還

http://www.asahi.com/national/update/0122/TKY200801220431.html

mixiでも取り上げられているのだけれども、相変わらず同じようなコメントがつきますね。

韓国人戦没者の遺骨返還=遺族「終止符打ちたい」

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=388985&media_id=4


いつも考えるのだけれども、人の心の憎しみと言うのは、どこから沸いてくるのだろうか。

例えば、ある人、Aさんが、他の人、Bさんをものすごく憎んでいるとしよう。

そのとき、AさんがBさんを憎む度合いであるところの、”ものすごく”はどういった基準で決まるのかしら。

Aさんは「Bさんがそのぐらい悪いから」と、それがあたかもBさんに100%原因があるかのように言いたいのかもしれない。

しかし、実際には、Aさん自身にも何かしらの要因があるのではないかしら。

こういうことを言うと、以下のように反論する人がいるかもしれません。

「そういうあなただって、自分の親や子供を通り魔に殺されたら、憎まずにはおれないでしょう。」

それはそうかもしれません。

でもそんな例は人生において、そうあるものではありません。

実際、僕自身、今日までの人生を振り返ってみても、そういう特殊なケースにおいて抱くであろう強い憎しみを、少なくとも普段の日常生活の中で抱いたことは一度もないです。

それはほかの人も同じではないでしょうか。

ある人が、その人の人生において、一度や二度は酷い目にあって、相手の人を強く憎むことはあるのかもしれません。

しかし、上のブログのコメントを書いているような人たちは、四六時中そういう状態なのではないでしょうか。

もしそうであれば、彼らが憎しみを燃やす基準はあまりにも低すぎるような気がします。

それはあたかも、ちょっとした刺激で爆発するニトログリセリンのようなものです。


結局、上のたとえ話で言うところのAさんは、もともと人を憎みやすい一面があるのではないかしら。

それについては、今回の憎しみの対象とされたところのBさんは特に関係ないような気がする。


世の中には、他人の非や間違いに四六時中腹を立てている人がいる。

それは、やっぱり他人の非の問題ではなくて、その人の憎悪の燃え立ちやすさと自制心のなさの問題のような気がする。

暴力の連鎖、憎しみの連鎖って、なんとか断ち切れないものかしら。

本当に「終止符打ちたい」ものです。

一方で、以下のようなニュースもありましたね。

黒人大統領に機は熟した、7割超 CNN調査

http://www.asahi.com/international/update/0122/TKY200801220439.html

アメリカ史上初の黒人大統領が生まれるか、アメリカ史上初の女性大統領が生まれるか。

楽しみですね。

あとはその人がキング牧師やケネディ大統領のように暗殺されないことを祈るのみです。


2008 (c) toraji.com All Right Reserved.




【随筆】お母さん、本当はお腹が痛いです

昨日のことである。

「明後日から会社だ」と思っていたら、母から電話がかかってきた。

なんでも、「旅行に行ったついでにたくさんかまぼこを買ってきて、それを兄に送ったら、怒られてしょげている」というのである。

上の話だけ聞くと、他人は何のことか分からないかもしれない。

僕は「ああそう」と言って話を聞いて、電話を切ると、しばらくして、また母から電話がかかってきた。

「お前に煮しめやら正月の料理をいろいろ作って送ったから。明日のお昼に届くから」と言う。

「ああ、やっぱりな」と内心で思った。


しかし、母の言う通りに家で待っているとこちらの休日が潰れるので、今日は午前中から外出。

東京メトロで新木場に行き、若洲の公園をぶらぶら。

それから、りんかい線に乗って、お台場へ。

いつもの逆の道を歩いて、レインボーブリッジへ。

田町まで歩いて、山手線で東京駅へ。

丸善、八重洲ブックセンターに行って、帰宅。

帰ってくると、小包がマンションの宅配ボックスに届いていた。

年末から数えて、これで3箱目である。

今回もけっこう大きい。

開けると、いろんな手料理が大量に出てきた。

で、その奥からさらに巨大な木箱が出てきた。

明けてみると、チラシ寿司と煮物が二段で入っていた。

ものすごい量に圧倒された。

寿司パーティーでも開くのだろうか。

どう見ても、それぞれ8人前はある。

これ以外にもたくさんの料理が入っている。

いずれも明日には腐りそうだ。

また、予想はしていたけれども、やっぱり例のかまぼこも入っている。

お休みの最終日に送ってこられても、とても一人暮らしの人間が食べられる量ではない。

でも腐らせるわけにも行かないので、僕は食べた。

食べて、食べて、いい加減に腹が痛くなったけれども、さらに食べた。

食べ過ぎて吐きそうになった頃に、また母から電話がかかってきた。

「チラシ寿司、ちょっと酢が薄かったかも」と言っている。

酢の問題ではない。

僕が「お寿司をさっき食べたけど、とても全部は食べられないよ」とやんわり言うと、

「冷凍したら、全部食べられるよ」と切り替えされた。

強引な訪問販売の説明のようだ。

結局、全部食べさせるつもりだ。

それにしても、母は年末から何十回僕に電話をかけてきているのだろう。

しばらく前に遡るけれども、年末に母から電話がかかってきた。

「正月に料理を作って送りたいけれども、体が悪くて、作れそうにない」という。

母は高血圧なのだ。

それで、母方の親戚はほぼ全員早くに亡くなっている。

生きているのは母だけであり、その母も大量の薬でごまかしているが、もう幾ばくもないらしい。

「無理しなくていいよ」と僕は言ったのだが、母には聞こえていない。

結局、年末にハムやらかまぼこやらがたくさん入った箱が送られてきた。

何とか食べていると、さらに年明けにもう一箱送られてきた。

自家栽培の野菜がたくさん入っていた。

柚子も入っている。

「鍋にして食べてくれ」と言うことらしい。

鍋にして食べたが、当然食べきれない。

腹がいっぱいである。

食べたあとで、箱の中をよく見ると、まだ何かある。

見てみると、薄切りの生肉のパックが入っていた。すでに変色している。

どう処分したらよいのだろう。

それから、また母から電話がかかってきて、こう言う。

「昨日、あんたの小さい頃の夢を見たよ。お母さん悲しかった。

あんたが小さい頃、お母さん、貧乏で何もしてあげられなかった。

今からでも、少しでも何かしたい。」

2、3年前から、母はときどきこういったことを言い出しては、その都度、大量に食料や、ぺらぺらのセール品の服をたくさん送ってくる。


前に何度かブログに書いたことがあるけれども、僕の両親は二人とも母子家庭で育った。

特に母は在日韓国人で暮らしぶりがかなりひどかった。

その二人が結婚して、何もない風呂なし、汲み取り式の古いアパートで生活を始めたのである。

若い頃は、ただひたすら二人で働いて、子どもの教育費をためていた。

そのおかげで、僕たち、兄弟は二人とも大学に行くことができた。

だが、その分、言われてみると、小さい頃から、贅沢をした覚えがない。

僕自身、服でも自転車でも何でも兄のお下がりだったし、外食はラーメンしか食べた記憶がない。

大きな超合金のおもちゃは1回しか買ってもらったことがないし、ファミコンなんかも持ってなかった。

でも、僕自身は生まれたときからそういう環境で育っているので、何の不満も疑問もなかった。

せいぜい、最近になって、「もしかして、小さい頃、うちは貧乏だったのかな」と思っている程度である。

しかし、母は内心でそうではないらしい。

子供にいい思いをさせられなかったことがかなり負い目になっているようである。

それが、最近、高齢になってきて、毎日暇になり、自分たちが生活に困らなくなると、そういったことが改めて気になるらしい。

なんとか、今からでも、出来ることをしたい。

その結果として、上のようなことになっているのである。

母は人のいい人なんだけれども、いまひとつ相手の気持ちを察することが出来ないところがある。

自分がしたいことを相手にしてあげる人なのだ。

そして、自分たちが戦後の物のない時代に育っているので、してあげたいことというのが、ものを買ってあげることなのだ。

しかし、根っからの貧乏性なので、質より量なのである。

それで、ただひたすら、安いものを大量に送ってくるのである。

去年の年始には煮しめだけで2kg以上送られてきた。

例によって「食べられなかったら捨てればいいから」と言うが、そういうもんではないだろう。

翌日にはけっこう腐っていたが、無理して一気に10分の1ぐらい食べた。

酸っぱかった。

この年始も、僕はいい加減ギブアップしそうになりながら、何とか耐えている。

母は自分の思いを遂げたいのだろうが、僕が思うに、母は、今やっていることを100回繰り返したところで、結局は納得出来ない気がする。

もし僕がお釈迦さんのように偉い人だったら、何か母を納得させられるような説法のひとつでも言うのかもしれないが、僕にはそんな力量はない。

母のやっていることは、結局はお金と時間の無駄のような気がするが、そのお金が母自身の老後のお金であり、その時間が母の残り少ない命の時間であると思うと、僕には止めようもないのである。

とりあえず、今は食べて食べて食べまくるしかない。

それで、僕は年末からずっと自宅で食い続けているのである。


2008 (c) toraji.com All Right Reserved.




【説教】私にも夢がある。

私は、私たちの夢を見ている。

私は、私の夢ではなく、私たちの夢を見ている。


私たちの夢を見ている人は、おそらく私以外にもいる。


私の夢を見ている人は、精神世界において、孤立している。

私たちの夢を見ている人たちは、精神世界において、お互いに繋がっている。


私たちの夢は2種類ある。

1.同一の夢

2.同種類の夢


ある国において、ある人たちに対する差別があるとしよう。

そのとき、彼ら、被差別者は、同一の夢を見ている。

「いつか、私たちは幸せになるのだ」という同一の夢を見ているのだ。

彼らは、同一の夢を共有しているので、心の中でお互いに繋がっている。


また、他の国において、別のある人たちに対する差別があるとしよう。

そのとき、彼らは前述の人たちと、同一ではないが、同じ種類の夢を見ている。

彼らもまた、心の中でお互いに繋がっている。


同じ境遇にある人たちは、同じ夢を見る。

同じような境遇にある人たちは、同じような夢を見る。


私たちの夢を見ている人たちは幸いである。

神の国はあなたがたのものである。

何故なら、神の国とは私たちの夢だからである。

それは人から人へと受け継がれ、廃れることがない。


私には夢がある。

"I have a dream."

私たちの夢という名の私の夢が。

私には福音がある。

かつて同じ夢を見た人が私以外にもいたのだという福音が。

私には希望がある。

同じ夢を見ている人が私以外にもいるのだという希望が。


今、私が毎日見ている夢は、例えば、かつてキング牧師が見たものと同種類の夢である。

だから、私とキング牧師は同じ精神世界の住人であり、かつて彼が見たものを、私もまた見ているのだ。

彼が見たものとは the promised land である。

私たちは、いつの日にか、a people として、そこにたどり着くのである。

それが私たちの夢である。


私もまた、心配するものは何もなく、恐れる者は誰もいない。

何故なら、私の瞳もまた the glory of the coming of the Load を見ているのだから。


「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

(ルカによる福音書 23 42,43)


私たちの夢を見る人は誰でも一緒に楽園にいる。


参考書籍:

"I HAVE A DREAM WRITINGS & SPEECHES THAT CHANGED THE WORLD"

Martin Luther King Jr.

特に:

"I have a dream."

"I see the promised land."


2008 (c) toraji.com All Right Reserved.





【説教】信仰とは何か
テーマ:説教

信仰とはなんだろうか。

信仰とは気付かされること、すなわち、改めて信じることである。


信じるとは「なるほど!」と思うことである。

「なるほど!」と思ったとき、その人はすでにそれを信じている。

信じるとは気付かされることである。

気付きのない信仰はない。

信仰には、何かしらの気付きが必要である。


ついでに言えば、信じられる人は、本来、気付く人でなければならない。

気付かない人は他人を気付かせることが出来ない。

盲人が盲人の手を引くことはできない。


ある人は気付くことによって、自らを助ける。

ある人は他人を気付かせることによって、その人を助ける。

ある人は他人に気付かされることによって、その人に助けられる。


気付く人は自他を助ける。

情けは人の為ならず。

気付きは人の為ならず。


「信じる」と「信じている」は違う。

人は意外なものだけを信じる。

人は当たり前なものだけを信じている。


信仰に目覚めた人は、(それまでのその人の常識から見て)意外なものを信じる。

生まれたときから信じている人は、当たり前なものを信じている。

信仰には気付きが必要だから、生まれたときから信じているのは真の信仰ではない。

生まれたときから信じている人には、気付きが欠けている。

彼らは最初から知っているのだから。

知ることが気付くことの前にあると、人は信じることができない。

それは解法を知っている問題の解法を考えるのと同じことだ。

だから、人は二度生まれなければならないわけだ。


なお、意外なものと当たり前なものは表現の違いであって、本質は同じである。

意外なものとは殻の割れた実であり、当たり前なものとは殻の割れていない実である。

人は気付きによって、殻を割る。

当たり前なものを信じている人は、その実を手にしていながら、いまだにそれを味わったことがないのだ。

だから、人は二度生まれなければならないわけだ。


2008 (c) toraji.com All Right Reserved