【思索】ブログにおける誹謗中傷について その1
テーマ:思索

いろいろな人のブログを読んでいると、誹謗中傷されて困っている人が多い。


その原因はどこにあるのだろう。


少なくとも、これだけ無数の人がブログを開設していて、大体のブログは必ずしも誹謗中傷を受けているわけではないのだから、ある種のブログだけが誹謗中傷されるのは、特に何らかの原因があってそうなっているのではないだろうか。



あるブログが誹謗中傷される原因を以下のふたつに分けよう。


1.そのブログの内容に原因がある。


2.そのブログの内容以外に原因がある。


今回は2.については置いておこう。



1.について考えてみよう。


あるブログの内容に原因があって、誹謗中傷される場合、具体的にはどこに原因があるのだろう。


考えてみると、以下の2種類に分けられる。


1-1.そのブログ自体が誹謗中傷している。


1-2.そのブログ自体は誹謗中傷していない。



1-1.はさらに以下に分けられる。


1-1-1.特定の個人を誹謗中傷している。


1-1-2.不特定の個人を誹謗中傷している。



1-1-1.の場合、当人は身に覚えがあるだろうから、結果的に誹謗中傷されるのはよく理解できるだろう。


それに対して、1-1-2.は当人には身に覚えがないかもしれない。



この後者をさらにふたつに分けてみよう。


1-1-2-1.特定の個人名を挙げずに、特定の個人を誹謗中傷している。


1-1-2-2.一般論として誹謗中傷している。



1-1-2-1.はいわゆる当てこすりや皮肉と呼ばれるもので、これも結局は誹謗中傷しているのと同じことだろう。


1-1-2-2.は特定の個人は想定していないが、一般論として述べていることが、結果的に特定の個人を誹謗中傷することになっている場合。



例えば、Aさんがブログで「貧乏ゆすりをするやつはバカ。ムカつく。」と書くと、貧乏ゆすりをする癖のある、面識のないBさんから反撃を受けたりする。


もちろんAさんはBさんのことを想定して書いたわけではないのだが。



いずれにしても、1-1.以下のケースは、ブログの発信者自身が何らかの形で読む人の気分を害しているのが原因であって、その反動として、同じ誹謗中傷がコメントの形で返ってきているだけの話なのではないか。


(以下、続く。)



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【思索】人生においてセンスと付き合いはどちらを優先すべきか
テーマ:思索


いつも思うことではあるけれども、センスと付き合いはどちらが大切なのだろうか。




たとえ話をひとつ。


あるところにAさんという人がいた。


Aさんは、ある日、友人たちとキャンプに行くことにした。


当日、みんなでカレーを作ることになった。


で、カレーの辛さをどうしようということになった。


Aさんは辛いものが好きだったので、辛口にしようと提案したが、甘口の方がいいという人もいて、意見が分かれた。


話し合ったところ、結局、甘口のカレーを作ることになった。


何故なら、参加者の中に辛いものが食べられないという人がいたのである。


その後、何度か、キャンプに行ったが、その後も、毎回甘口のカレーを作ることになってしまった。



一般論として言うならば、キャンプにおいて作るカレーの辛さは、辛口と甘口のどちらが美味しいかで決まるのではなく、どちらが食べられないかで決まるのである。


辛口のカレーが食べられる人は甘口のカレーも食べられるが、その逆は必ずしも真ではないのである。



次に、例えば、こう考えてみよう。


Q1.今、あなたは一人で映画を見に行くとする。


あなたはどんな映画を見に行くだろうか。


Q2.今、あなたは仲のよい友人たちと一緒に映画を見に行くとする。


あなたはどんな映画を見に行こうと提案するだろうか。


最後に、


Q3.Q1.の映画とQ2.の映画は同じものだろうか、それとも違うものだろうか。



私の場合、Q3.の答えについて言えば、常にこの2つは異なる。


何故ならば、私にとってよいと思えるものは、常に周囲の知人らには勧めても仕方がないものなのだから。


それに対して、世の中には、この2つがいつも適当に一致している人たちもいるのだ。



常々思うことだが、人間とは価値を追い求めていく存在である。


そして、人間が価値を認識するためには、それを理解するための価値観が必要である。


ところが、この価値観には2種類あるのである。


一つは先天的な価値観であり、もう一つは後天的な価値観である。


先天的な価値観とは、人間ならば誰でも備わっているような価値観である。


具体的に言うならば、食欲や性欲に基づいた価値観である。


旨い食べ物や美しい人を見れば、だれでもそこに価値を見出す。


そこにはさしたる訓練はいらない。


(食べ物において、大人の味を覚えるのには多少時間がかかるかもしれない。)



それに対して、例えば、ある種の美術作品の価値が分かるためには、そのための価値観を後天的に得る必要がある。


例えば、ピカソの絵を見て、何の美術的な修練もなく、「これは素晴らしい」と思う人はそれほど多くないだろう。


我々凡人の場合、ピカソの絵の価値が分かるためには、それなりの価値観(審美眼)を養う必要がある。


逆にそれを養った人は、それを養っていない人たちと同じ価値観を共有することは出来なくなる。


ある価値観を得た人が、その価値観に基づいた価値を、その価値観を得ていない人に勧めても、相手は首を傾げるだけだろう。


かつては、ともに「こんなの、どこがいいんだろうね」と首を傾げあっていたはずなのだが。




人間の生き方は、突き詰めると、以下の2種類に分けられる。


1.自分にない価値観を捜し求める生き方。


(価値観は価値以上に価値がある。自分の眼球が他人が描いた絵画より価値があるように。)


2.自分にない価値観を捜し求めることはなく、他人とあり合わせの価値観で済ませてしまう生き方。


前者は、より多くの価値のあるものに出会うことが出来るだろうが、周りの人たちとの付き合いは難しくなるばかりだろう。


前者にとって、会話は、情報交換のためであって、コミュニケーションのためではない。


だから、顔見知りに、真の友人がいなくなるのだ。


後者は、人間関係には困らないのだろうが、常に大衆向けの流行り物(つまり、常に食欲や性欲に訴える手合いが作り出した大量生産品)しか理解出来ない鈍感な人生で終わってしまうだろう。


後者にとって、会話は、コミュニケーションのためであって、情報交換のためではない。


だから、顔見知り以外に、真の友人がいないのだ。


(我々は情報の中に真の友人を見出すことがある、その友人とは会ったこともないのだが。)



なお、人工的に養った価値観は、さらにその後の修養によって、かえってそれが否定されることもある。


しかし、それは決して最初の状態に戻るわけではないのだ。


十牛図の結論が「それなら最初から旅に出なければよかったのに」ではないように。



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【思索】人文学的な悲劇について
テーマ:思索


人文学的な悲劇について考える。


ここ数年、映画やテレビドラマにおいて、「余命数ヶ月」という設定のドラマが多いようだ。「余命数ヶ月」という設定は、単なる不遇の死よりもドラマティックである。その死に至るまでの当人の心情や、近親者との語らいなどにおいて、さまざまな人間ドラマが存在する。


ただ、私は、個人的には、この手の設定にはデジャヴを覚える。自分が小さい頃、そういった設定の映画やテレビドラマがよく作られていたからだ。しかし、’80年代のバブルの頃になると、そういったドラマは作られなくなった。あるいは、作られても形骸化したものに過ぎなかった。それが、ここ数年になって、ふたたびよく作られるようになったようである。しかし、現代の社会において、どうもこの設定はあまりなじまないような気がする。



ウィトゲンシュタインは言っている。


「悲劇というものは、いつもあの言葉ではじめることができるだろう。『もしも、・・・・・・でなかったなら、なにも起きなかっただろう』。

(もしも彼の服の端が機械に巻きこまれなかったら?)」(ウィトゲンシュタイン 丘沢静也訳)


すなわち、悲劇には不運がなければならない。



人間にとって、最大の悲劇は不慮の死である。そして、人が死に至る原因には、先天的なものと後天的なものがあり、この両者では不運の意味合いが異なる。


かつての社会においては、この後天的な原因で死に至ることが珍しくなかった。例えば、作曲家のチャイコフスキーはコップ一杯の生水を飲んでしまったがために、コレラにかかり、亡くなってしまった(彼の死因には諸説ある)。この話を聞くと、我々は、「彼がコップ一杯の水を飲みさえしなければ、彼は死なずにすんだのに。また、そうでなければ、彼はもっといろいろな名作を作ってくれただろうに」と考える。


今日の社会においては、上のような判断ミスから死に至るような不運な病は多くない。


例えば、ある主人公が、ある日、悪性のがんが見つかって、余命数ヶ月と診断されても、そこには、人為による「たら、れば」がなく、上のチャイコフスキーの場合のような後悔する不運さがない。(なお、大腸がんなどの場合、内視鏡検診による早期の発見があれば、存命率は非常に高くなるそうだが、その検診をしなかったために大腸がんになった場合も、上のような場合とは状況が異なる。)あるいは、あるヘビースモーカーが長年の喫煙から肺がんになった場合においても、彼がタバコを吸いすぎるとがんになるリスクがあることを知りながら、タバコを多量に吸っていたことを考えると、やはりチャイコフスキーの場合のような不運さが欠けている。


この点に気が付かないで、昔の作家が日常的な一こまとして描いていた結核による近親者の死のような話を、現代のがんによるサラリーマンのお父さんの死に置き換えても、不自然な印象をぬぐうことは出来ないのではないだろうか。


結局、今日のテレビドラマなどにおける不治の病という設定は、余命数ヶ月というSF的なプロットを実現するための小道具に過ぎないのだろう。私は、「余命数ヶ月」という設定は、かつての天然痘、結核、ペスト、コレラのような感染症による不遇の死が身近にあった時代においてあり得た話であると思う。「余命数ヶ月」といったお話を書くのが悪いとは言わないが、せめて時代設定などを相応のものにするべきではないだろうか。あるいは、仮に鳥インフルエンザのような現在の感染症を描いても、ただのパニック映画になってしまうだけだろう。


悲劇そのものについて言えば、例えば、ある登場人物が極めて貧しかったり、体が弱かったりする設定が、その人の人間性に関わりがないという点において、人文学的な悲劇的要素にはならないように、単に天災による被害を描いただけの筋書きでは、人文学的な悲劇にはならない。実際、世界的な名作と呼ばれている悲劇に、地震や火事などの災害や一般的な病気による死を扱ったものはまずみられない。


結局、悲劇には2種類ある。


1.天災による悲劇
2.人災による悲劇


これは、次のように言い換えられる。


1’.天然の悲劇(自然が作り出す悲劇)
2’.人工の悲劇(人間が作り出す悲劇)


ここで、天然の悲劇とは、自然災害などからもたらされる悲劇である。この場合、真の作家は自然であって、これを模した話を作家が想像を膨らませて創作にしても仕方がないのではないだろうか。近年、大規模な災害を題材にした映画などが作られることが多いが、いずれも人文学的な名作足りえていないようだ。


別の視点で言えば、悲劇は以下の2種類に分けることも出来る。


Ⅰ.人間がこうむる悲劇
Ⅱ.人間が作り出す悲劇


人文学における悲劇は、Ⅱ.でなければならない。Ⅰ.とⅡ.を見分ける基準は、善悪はともかくとして、悲劇を作り出す登場人物がいるかどうかである。




天然痘
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%84%B6%E7%97%98
結核
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E6%A0%B8
>現在でも日本や欧米を含む世界中に分布しており、毎年300万人が結核により命を落としている。
ペスト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%B9%E3%83%88
コレラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%A9



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【断片】人間と人間関係の関係
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神は人間を作り出し、


人間は人間関係を作り出した。


神が人間の創造主であるように、


人間は人間関係の創造主である。


それ故に、人間は自分の出来に責任を持てなくても、


自分が作り出した人間関係の出来には責任を持たなくてはならない。



よい人間になるということと、よい人間関係を築くということは別の話である。


よい人間がよい人間関係を築くとは限らないし、


よい人間関係を築いている人間がよい人間であるとも限らない。


あなたは、よい人間ではなくても、よい人間関係を築かなければならない。


それがあなたの裁量で自由に出来ることなのだから。



人間は髪を白くも黒くもすることが出来ない。


しかし、機嫌を損ねた友人に謝ることは出来る。


人間は足を長くすることは出来ない。


しかし、遠く離れた親にちょっとした贈り物をすることは出来る。



真夏の鵠沼海岸で刺青をしたやくざ者が小さな娘さんと波に戯れている。


私はそれをぼんやりと眺めている。


(波のきらめきはあまりにも眩しく、私はそれを見つめることが出来ない。)


人間関係の美しいこと。


(私たち人間はそれを作り出すことが出来る。)



人間関係は人間が作り出せる最も美しいものである。



自分がよい人間であるかどうかよりも、


自分がよい人間関係を築いているかどうかを自らに問いなさい。



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【断片】人間と人間関係の関係 その2
テーマ:断片


人間は人間関係の中で生まれる。


人間関係のないところに人間は育たない。


しかし、一度人間関係のあるところで育った人間は、その後人間関係を失ったとしても人間でなくなることがない。




こう考えてみよう。


昔々、あるところに、一艘の旅客船があった。


その船にはいろいろな人々が乗船していたが、ある夜、その船は沈没してしまった。


そして、ある幼児はある無人島に流れ着いた。


その幼児は一人で生きていくことが出来なかったが、たまたまその無人島に住むある動物が乳をやって育てた。


また、その島はたまたま食料が豊富だったので、その幼児は何とか生きながらえることが出来た。


しかし、その子は野生の動物と変わらずに育った。



また、同じ旅客船に乗っていたある成人男性は別の無人島に流れ着いた。


その無人島もまた食料が豊富だったので、その男は何とか暮らしていくことが出来た。


そして、彼はその島で一人ぼっちで生涯を終えたが、終生人間性を失うことはなかった。




結局のところ、人間性は人間関係の中において育まれる。


人間は人間関係の中に生まれなければ人間になることが出来ない。


しかし、一度人間になることが出来れば、それ以降は必ずしも人間関係を必要としなくなる。



人間になるということと、人間であるということは別の話である。


人間になるためには、その土壌として人間関係が必要だが、


ある人間が人間であり続けるためには必ずしも人間関係は必要ない。



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