私について
テーマ:Pre Vol.2


私がどんな大金持ちや権力者になったとしても、どうしてもかなわないことがひとつある。


それは君の手を握ることである。



人は諦めて詩を書く。


詩には著作権がある。


著作権(copyright)とは、複製する権利である。


詩に限らず、著作物は複製することが出来る。


詩は複製することが出来るが、


恋愛は複製することが出来ない。


恋愛と詩は交換することができない。


求めて得られない人が、


求められても与えられない人に詩を書いても、


相手を困らせるだけだろう。


恋愛詩は書く人を癒し、


書かれる人を不愉快にする。


そして、不愉快はときおり憎悪に変化する。



夢のある人は、案外夢のない人に惚れるものである。


夢のない人は、夢のない人に惚れるものである。


夢のない人は夢には興味がないから、夢のある人にも興味がないものである。


夢のある人が夢のない人と心が通じることはないだろう。


幸せな恋愛詩は存在しない。



不幸とは希少な幸福を求めることである。


大切なものは手に入らないものである。



手に入らない幸福を手に入れようとする不幸。


手に入らない幸福を眺める幸福。



私が好意を伝えるのは、お別れをするときである。


私の告白はいつも過去形だ。


力を貸してくれる人は有り難い。


「有り難い」とは「滅多にない」、「得難い」ということである。



得られそうだった物が得られなかったとき、何も失っていないのに残念がる。



「大丈夫、もう間に合わない。」



寂しさは僕の個人的な仕事に対して支払われる報酬である。



自分の名前をGoogleで検索すると面白い。


会社の社長だったり、短距離走の選手だったり、アーティストだったり。


いろんな自分がいるもんだ。



君は今幸せだろう。昔幸せではないのに、幸せだと言っていたのだから。



子は親と死に別れ、親は子と生き別れる。


母親の臨終に際して、言う言葉。


「お母さん、また僕を生んでくださいね。」



私の文学について


もはや在日文学ではない。


最初から在日文学ではなかったが。



私の意思は私の肉体を自由に動かすことが出来るが、他人の肉体を自由に動かすことは出来ない。


私が他人の腕を動かすためには、その他人の意思に依頼するか、その他人が眠っているうちに私の肉体でこっそりと動かすしかない。



私は私の手足を動かすことが出来る。


私は私の心臓を止めることが出来ない。


私は私の肺を(しばらくの間)止めることが出来る。



私は視線で他人を操作することが出来る。


例えば、私は電車に乗っている。


目の前に若い人がいて、大音量で音楽を聴いている。


うるさいので、私はその人を見つめる。


特に、その人の目と、その人の胸にぶら下がっているリモコンを見つめる。


すると、するすると音量が小さくなる。


私は視線で他人を操作することが出来る。


そうならない場合もあるが。



今日は陣馬山を歩きながら、上のようなことを考えた。



女性は、私にとって、最も身近にあって、最も縁のないものである。


私が女性の肌に触れることの何と少ないことか。



よく知らなくてよかったと思うことがある。


例えば、テレビゲームについてよく知らなくてよかったとか。



ゴキブリのようにしぶとい私は、儚いものに憧れる。



元気な私に「元気が出る音楽」はいらない。


元気が出る音楽は、病人のための音楽である。



私という人間は、歩くのは早いが、走るのは遅い。



憧れるものに縁がない。



自分に勇気を貰う毎日だ。



うちの猫たちは私に向かって吠える。



「題名のない音楽会」と「コメントのないブログ」は、名前は似ているが、実際はえらい違いである。



私は考えごとをするのが好きだ。


何かしらの考えを、多いときは10個思い付いて、8個忘れる。


最近は5個思い付いて、4個忘れる。


思いついたことを忘れないように、メモ帳を持ち歩くことにした。


肝心のメモ帳を自宅に忘れてしまう。



考えなくてもよいことを考えてしまう。



道を歩いていて、窓明かりが幸せそうに見えるのは、自分がそうではないからなのだろうか。



私は私の思想を世に放つ。



尊敬していた人の元ネタを知って、がっかりすると同時に親しみが沸く。



メモ帳がどこかへ行ってしまった。



私には私の預言があるのだから、他人の預言を羨むことはない。



娯楽の話は苦手である。



自分より悲観している人を見ると、安心する。


自分とその人との悲観の差分を、その人に与えられそうな気がするから。



漫画を読むということ。


他人の人生を眺めて暮らしている。



言葉が生えてくる。



私の言葉が、私の人生のマイレージである。



自分にぴったりの言葉が見つかるとうれしい。



作曲するように言葉を紡ぎ出す。



「さよなら」と言う機会が、「はじめまして」と言う機会よりも多いのは何故だろう。



赤裸々な言葉は、見知らぬ人の心を打つが、顔見知りの人からは失笑を買う。



メモ帳がようやく見つかったので、書き留めておいたことを読んでみる。


「テレビカメラのスイッチをON


人間も同じこと」


何度読み返してみても、何のことだか分からない。


しばらく考えていて、ようやく思い出した。


私は先週末の高尾山中で、あの寒い六号路を歩きながら、こう考えたのだった。


「今ここにテレビカメラがある。


私がそれの電源ボタンを押す。


それから録画ボタンを押すと、録画が開始される。


あとで、その録画した映像を見ると、録画ボタンを押したところから映像が始まる。


逆に言えば、私は、電源ボタンを押してから、録画ボタンを押すまでの映像を見ることは出来ない。


人間もこれと同じである。


人間は母親の胎内から生まれる。


それからしばらくして目が見え始める。


だから、人間は生まれてから目が見え始めるまでの映像を見ることが出来ない。」


やはり、何のことだか分からない。



私は何を言っているのだろう。



大事な友人たちを捨てて、私は自由になった。



私は、両親以外の人から親切にされると、うろたえる。



拾い読みできる本しか、読む気がしない。


長編小説は時間の無駄である。



日本人と韓国人の間に、私は生まれた。

純血種の人たちにすることがあるように、

混血種の私にもすることがある。



「私」にこだわると、<私>は「私」に振り回される。

「私」は<私>ではない。



二人暮らし:


「僕が上げ 君が下ろす 便座かな。」


(季語がないことに気が付いた。)



与えられていないから、迷わない。


それはいつも私のものではない(諸法非我)。



鬱に縁がない。



私を支持してくれる人は、病んでいる人か、信じている人か、のどちらかであるらしい。



詰まらないものに夢中になっている大切な人たち。


一人で大切な時間を過ごし、


大切な人たちと詰まらない時間を過ごす。



いろいろな原典を渡り歩く。



好意は伝わらないのに、悪意は伝わってしまう。

大事なものを失って、大事なものを得る。


今、自分が得ているものの有難さは、


自分が失ってしまったものの得難さ。



今の私は、好きなだけ、言葉の果実をもぎ取ることが出来る。


私はそこに入ることが出来るようになった。



若い頃、哲学書や宗教書など、いろいろな本を読んだ。


そして、いろいろな素晴らしい言葉に出会った。


それらは今でも暗唱することが出来る。


(しかし、今、改めて考えてみると、今の自分には)


自分の言葉だけで事足りるかもしれない。



昔聴いた音楽を聴きながら考えごとをしていると、昔考えたことをたくさん思い出す。


音楽に考えごとが焼きついているのか、考えごとに音楽が焼きついているのか。



若い頃にひとりで考えたことを、世に伝えられてよかった。




【日記】浜崎あゆみさん「左耳聞こえない」 HPで明らかに
テーマ:日記

浜崎あゆみさん「左耳聞こえない」 HPで明らかに
http://www.asahi.com/culture/update/0107/TKY200801070156.html

浜崎あゆみさんの左耳が聞こえなくなったのだそうだ。

以前にも書いたのだけれども、僕も左耳が聞こえない。

【随筆】母の仕事の話
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10043370527.html


僕の場合は、子供の頃からなので、何も考えてなかったけれども、彼女のように大人になってから聞こえなくなった場合はどんなもんなんだろうかしら。


個人的な経験から言って、僕が左耳が聞こえなくなって困ったのは以下の2点である。


ひとつは、僕は中学の頃からビートルズのような’60年代の音楽が好きになったのだけれども、これらの音楽をヘッドフォンで聴くのが不便だった。

と言うのは、’60年代はちょうど音楽がモノラルからステレオに切り替わる時期で、最初の頃は、いわゆる擬似ステレオというものが使われていたりしたからである。

要するに、本来の意味におけるステレオでもなんでもなく、スピーカーが2台あると、右のスピーカーからギター、左のスピーカーからベースが、それぞれモノラルで聴こえてきたりするのである。

(ここで、オーディオマニアの薀蓄的突っ込みは遠慮したい。)

それを普段はスピーカーで聴いていたのだけれども、夜遅くなると、同じ部屋に両親が寝ているので、ヘッドフォンで聴くしかなかった。

で、ヘッドフォンで聴いていると、片方の音しか聞こえないのである。

要するに、ギターだけがシャカシャカ聞こえたり、コーラスが中途半端に聴こえてくるのである。

仕方がないので、ヘッドフォンを左右取り換えながら繰り返し聴いていた。


大学になって、僕はモノラルアンプが欲しくなった。

これを使うと、擬似ステレオもモノラルで聴こえるはずである。

しかし、いまどき、わざわざモノラルアンプを買う人は少なく(*)、そのいずれもが極端に高かった。

(*いたとすれば、大滝詠一や山下達郎のように、"Back to MONO"を標榜とするフィル・スペクターのマニアぐらいかもしれない。)

それでも、当時はソニーのカタログにモノラルアンプが載っていたのである。

定価は4万円台だったと思う。

他のモノラルアンプに比べると、かなり安いのだが、それでも大学生の僕には高くて買えなかった。

そのうち、生産中止になってしまい、結局、僕は買うことが出来なかった。

それで、僕は未だにモノラルアンプを持っていない。

その後、スピーカーへの配線をモノラル化すればよいことに気がついて、とりあえず、今はモノラルアンプなしでも、スピーカー一つで聴いている。


左耳が聴こえなくなって、困ることのもう一つは、他人から声をかけられて、それが聞き取れなかった際に、先方の想像の中であれこれ悪く思われることがあるという点である。

例えば、先述の浜崎あゆみが道を歩いていたとする。

そこで、ある一般人が見かけて、声をかけたとする。

しかし、彼女はそれに気がつかずに通り過ぎたとする。

すると、声をかけた人はこう思ったりする。

「せっかく声をかけたのに、シカトされちゃったぜ。

ちょっと有名人だからって、気取りやがって。」

彼女は単に聴こえなくて、通り過ぎただけなのだが、声をかけた人の心の中では、「有名人が気取って通り過ぎた」ことになってしまうのである。


上はたとえ話であって、僕の場合、それほど極端ではないけれども、似たような経験をよくした。

大学時代に日雇いのアルバイトをしていた。

引越しのバイトなどは割に合わない。

でも、もくもく働いていると、ときどき会社の人から何か指示される。

それが聴こえなくて、聞き返すと、「てめえ、シカトこいてんじゃねえよ」と言われて、驚いたりする。

あるいは、某鉄道で定期を更新しようとした際に、よく分からないことがあって、聞き返してみると、「さっき説明したでしょ」と言われてふんぞり返られたりする。

そのたびに、人間の心(モノの見方)が見えてしまうような気がしたものである。

人間は、自分の心の汚れや歪み具合に応じて、いくらでも「嫌な人」や「許せない奴」や「悪人」を作り出すものらしい。


それにしても、この歳になって、改めて考えてみると、片耳が聞こえなくなったのは、僕にとってよかったのかもしれない。

何故なら、上の例のような状況において、人の心の声が恐ろしいほど聴こえてしまうからである。

聴こえる右の耳からはその人の肉声が、聴こえない左の耳からはその人の心の声が、それぞれ聞こえるのである。

だから、それが食い違っているかどうかで、その人が誠実な人かどうかが分かるのである。

僕が、毎日、ブログで人間についてあれこれと書くことができるのはこれのおかげだ。

(だから、お母さん、昔のことをいつまでも気に病むことはないですよ。

もう、寿司を8人前も送ってこなくてもよいですよ。)


2008 (c) toraji.com All Right Reserved.