苦難は有能さを与えてはくれないが、有能さの本来の使い道を教えてくれる。

苦難にあわない人が努力すると、有能にはなるが、その使い道を知らないので、達するべき目的を達することが出来ない。

苦難にあった人が努力しないと、有能さの本来の使い道は知っても、有能さを得られないので、達するべき目的を達することが出来ない。


苦難は人生の使い道を教えてくれる。

金儲けは苦難を忘れさせてくれる。

故に金儲けは人生の使い道も忘れさせてくれる。


人生における2つの指針:

1.疑わないこと。

2.騙されないこと。

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
(マタイによる福音書 10 16)


人生がうまくいっている人。

人生がうまくいっていない人。

人生がうまくいっていないから、うまくいっている人。


したいことではなくて、出来たことを言うのがよい。


クリエイティブではない人の生き方は以下の2種類に分類することが出来る。

1.定員枠争い(学歴争い、バーゲンセール、電車における空席の取り合い、買占めなど)

2.転売(受け売り、パクリ、株の売買、丸投げ発注、ピンハネなど)

両者の違いは、利ざやの稼ぎ方の違いである。

前者は「空間的」であり、後者は「時間的」である。

いずれにしても、クリエイティブではないという点においては同じである。

クリエイティブに生きたければ、上のようなことをなるべくしないことである。


「傷つかなければ、何も生まれない」と言いながら、何も生み出さない人がいる。彼は自説の正しさを体現している。


評論家は歴史に名を残さない。

彼らに評論されたものが歴史に名を残す。


「受くべからざるは取るべからず」は与えられていない人だけに与えられる。


人間はしたいことは何でも出来る。

出来ないことをしたいと思わなければよいのだから。


たいしたものを作れない人が、すごいものを作る。

すごいものを作れない人が、たいしたものを作る。


他人でも出来ることは、他人に任せるべきである。

「読者にもできることは、読者にまかせることだ。」
ウィトゲンシュタイン 「反哲学的断章-文化と価値」(丘沢静也訳)


馬に賭けるより、自分に賭けなさい。

株を買うより、自分を買いなさい。

投資する人間ではなく、投資される人間になりなさい。


若い頃は、得られなかったものを悔やむ。

年を経ると、与えなかったことを悔やむ。


恵まれている人の生来の自信を、そうでない人が努力して身につけることは出来ない。

そうでない人は別の種類の自信を探すべきである。


世の中には仕方がないことが多いが、仕方がないことだけでもない。

仕方がなくないこととは、誰でも出来ることである。

誰でも出来ることで最も大それたことは、犯罪である。

中途半端な人が成し得る唯一の大それたことは犯罪である。

大それた犯罪は、中途半端な人が起こす。


誰でも出来ることを、誰でもやるわけではない。

誰でも出来ることで、大それたことではないことを、自主的にこつこつやってみると、案外納得のいくものが出来る。


素敵なことは義務じゃない。


努力は引っかき傷に似ている。

たくさん努力すると、たくさん引っかき傷が出来る。

もっとたくさん努力すると、引っかき傷が磨り減って見当たらなくなる。


現実を分析し、不遇を分析し、苦しみを分析し、悲しみを分析し、憎しみを分析し、

人生を設計し、恋愛を設計し、成功を設計し、喜びを設計し、救いを設計し、

それらが稼動するのを見ないまま、世を去るのだ。


人生において、緊急性を重要性よりも常に優先してしまうと、緊急性のない重要なことを一生し損ねる。

「明日までに作成しなければならない会社の資料」などのことで常に頭が一杯になっていると、「人は何故生きるのか」について考える機会が一生なくなる、など。



人生は道に例えられる。

そう考えてみると、人間には2つの能力が必要とされる。

ひとつは、「道を進む能力」である。

これを人は「努力」と呼ぶ。

もう一つは、分岐点に差し掛かった際に、「どの道を選ぶべきかを見極める判断力」である。

いわゆる「恵まれている人」が出世しやすいのは、後者の能力に恵まれているからである。

後者を若くして自力で得るのは難しい。

しかし、晩年においては、その立場が逆になる。

『差別に関わらない生き方』と『差別をなくすための生き方』は別物である。

後者の道を選ぶ人は、本人の意に反して、差別に逢うだろう。

「私はあなたたちと共には行けないかもしれないが。」(M・L・キング牧師)

(個人的に)差別されたくないのか。

(世間的に)差別をなくしたいのか。

どちらをトレードオフするかである。

【日記】わしの本が発送されました。(^ω^)
テーマ:日記

今日はわしの本の発送日。

うちに帰ってみると、「本を発送しました」っちゅうメールが着いとったわ。

今までの例から、明日には届くじゃろう。

あとは受け取るだけじゃ。

ほいじゃが、明日も当然仕事じゃけん、配達員の人にまた持って帰られるかもしれんのう。

最悪、受け取りは土曜日かのう。

まあ、ええわ。

これで少なくとも、前々回みたいに、ページ数オーバーでキャンセルされることがないことは分かったわ。

これで、内容にも問題がなければ、今後は安心して追加の発注ができるわ。

よかった。(^ω^)


この本が出来てよかったのは、わしの思索と創作の足場が出来たことじゃ。

この本が出来たことで、わしの人生において生み出すものの最高点がこれより下がることがなくなったわけじゃ。

TOEICで一度でも730点を取れば、それ以降、点数が下がっても記録は残るのと同じじゃ。

今後は、こつこつええ物を作っていって、これ以上の物を出来たら、その都度、出来が低いのと取り換えていけばええんじゃ。(^ω^)

そのために、これからも、どんどん文章を書いていくんじゃ。

それと同時に、今回書籍に収録された文章を、記事単位でリファクタリング(再構築)していくんじゃ。

まあ、出版業界で言うところの改定作業をしていくわけじゃ。

あと、その作業の中で、同じ趣旨の文章を統合したり、シリーズ物の文章をテンプレートを決めて書き直したりするのもええじゃろう。


そうして、一年ぐらいがんばって、今年の年末に第2巻を出すんじゃ。

まず、今年の新作を収録して、スペースが余ったら、次に改定した文章を追加して、それでも余ったら、改定してない既存の文章の一番言いやつから順番に一杯になるまで詰めるんじゃ。

その調子で、今後も、第3巻、第4巻と出していって、ある程度数が揃ったら、いろんな人の意見を聞いて、ベスト版を作るんじゃ。

つまり、今までの中で一番ええやつを集めるんじゃのう。

そのときには、正式に、ハードカバーで自費出版するのもええかもしれん。

この間、自費出版大手の新風舎が経営破たんっちゅうニュースが流れとったけど、この間、丸の内の書店の丸善に行ったら、自費出版サービスを受け付けとったわ。

そういえば、丸善って小売店なのに、新書とか出しとるよのう。

じゃけん、いざとなったら、ここに頼めばええんじゃ。

あれこれと考えとると、なんか、夢が膨らんでくるのう。


わしは自分の人生が楽しいわ。(^ω^)

野に咲く花々を好きなだけ摘み歩いておるような人生じゃ。


あののう、みなさん。

せっかくじゃけん、よう聞きんさい。

人間っちゅうのはのう、自分で自分を幸せに出来るんじゃ。

別に大金持ちである必要もないし、美男美女である必要もないし、よっぽどの幸運をつかむ必要もないんじゃ。

例えば、わしはこの本を書くのに、特別に何かしたわけじゃないじゃろ。

日頃から考えごとをして、考えたり、気づいたりしたことを、mixi時代から3年間、毎日のようにこつこつと書いておって、本にまとめただけなんじゃ。

アメブロの利用料金は無料じゃし、本は一冊1900円から注文できる。

要するに、誰にでも出来ることなんじゃ。

それは何を意味しておるのかっちゅうとのう。

「『ある人が誰でも出来るやり方で幸福になれる』っちゅうことは、『人間は誰でも幸福になれる』っちゅうことじゃ」ちゅうことじゃ。

幸運は誰にでも手に入るもんじゃないが、幸福は誰でも手に入れることが出来るんじゃ。

あとは、本人の味わい方次第ちゅうことじゃね。

ゲーテも言うておるじゃろ。


「世に幸福はあるが我等はそれを知らぬ、知っていてもそれを重んじない」(ゲーテ)


なるほど、ええことを言うわ。さすがはゲーテじゃ。

幸福というのは、例えるならば、見た目はぱっとせんけど美味な食材のようなものじゃわ。

見た目がぱっとせんもんじゃけん、少なからぬ人が食わず嫌いをして通り過ぎるのじゃ。

幸福は只で誰でも手に入れることができるのに。

もったいないことじゃわ。

じゃあまたの。(`ω′)!


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言葉について

恋(こい)は訓読みであり、愛(アイ)は音読みである。

愛(アイ)は外国語(中国語)である。

今、あなたの目の前に、以下の英語の問題があるとしよう。

【問】 "I love you."を日本語に訳せ。

そのとき、あなたは何と訳すだろうか。

ある人はこう訳すかもしれない。

【答】「私はあなたを愛しています。」

すなわち、直訳である。

ところで、実際に、恋人に向かって「あなたを愛しています」という人が何人いるのだろうか。

実のところ、「愛しています」は言いにくい。

本来のやまとことばではないからだろう。

「人類愛」や「隣人愛」が、日常会話において、ぴんと来ないのも、同じ理由であろう。

なお、愛の訓読みは「いと(おしい)」である。




「彼女」(she)という日本語は近代までなかったのだそうな。

西欧化にあたり、「彼」と対になる言葉として作られたのだろう。

(「◆西欧語からの訳語「かのおんな」の「おんな」を音読した語。」(大辞泉))

で、この彼と言う言葉も、元々は「[代]遠称の指示代名詞。あれ。」(大辞泉)であって、男性を差す言葉ではない。

そのせいか、昔から、「彼女」と言う言葉に違和感を覚える。

先日以下の文章を書いてみて、改めてそう思ったのだが、日本語の場合、男性であれ、女性であれ、三人称は「彼」でいいんじゃないだろうか。

【小説】わんたん。 R2 Draft1」
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10113916241.html

今後、小説などを書く場合は、状況に応じて、性別を問わず、三人称は「彼」と書くことにする。



文章の価値は、単語と単語の組み合わせ方で決まる。

美しい単語は固形スープに似ている。

それを文章に混ぜれば、誰でも簡単に美味しいスープが作れてしまう。

しかし、誰が作ってみても、味は同じになってしまうのだ。