芸術について


歌の歌詞に実感のない人生を見出す未熟。


昔、ある有名な作家が、新人の頃、自作を出版社に持ち込んだところ、以下のように言われて断られたそうである。

「面白いところは独創的でなく、独創的なところは面白くない。」


芸術家が自己鍛錬を始めたら、芸術作品は死滅するだろう。


多作の人は信用できないだろうか。


芸術作品は批評することが出来るが、

芸術作品は批評によって成り立っているわけではない。

人間の精神は分析することが出来るが、

人間の精神は分析によって成り立っているわけではない。


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美しさについて


美しい人に、美しいものを選ぶセンスがないのは皮肉なことである。

美しい瞳に鑑識眼があるわけではないのだ。


美しい者には心を惹かれるが、美しい者が心を惹かれるものには心を惹かれない。


数学的な美しさ、哲学的な美しさ、芸術的な美しさ


慰めは2種類ある。

1.美しい人への慰め
2.美しくない人への慰め

前者は偽物であり得、後者は本物であり得る。
美しい人が慰めを嫌うのは、偽物ばかりを食わされているからである。


美しく見えるものが美しいとは限らない。

美しく見られるものが美しいとは限らない。



【日記】鎌倉の歐林洞でCes Chiensのライブを見ました。(一部)

それから、途中で早川さんのMCがあって、昨年9月に亡くなった仲間のHONZIさんを追悼する歌を歌う。

これがとてもよかった。

音と着想に心がこもっている。

感情を感情的に表現するのではなくて、感情をアートとして表現していた。

我を忘れて涙ながらに歌うのではなくて、涙を、一端、音に変換して歌っていた。


泣いたり、がなったりするのは、表現じゃない。要求だ。

要求は、奪うものであって、与えるものではない。

表現は与えるものだから、要求は表現ではない。

要求は表現できない。


例えば、テロリストたちが人質を取って銀行に立てこもり、政治的な要求をするのは、表現じゃない。

犯人たちは何かしらを訴えながら、実は要求ばかりしている。

力ずくで奪い取ろうとするから、力ずくでねじ伏せられる。

表現しながら、要求するのは、矛盾している。

表現する人にとっても、鑑賞する人にとっても、これを見極めるのがなかなか難しいんじゃないかしら。




【日記】夕日が美しい理由
テーマ:日記

最近、夕方の夕暮れが美しい。

どうしてかなと思って、考えていたら、ようやく気がついた。

今の時期の夕暮れが特別に美しいのではない。

会社員の自分の仕事が定時に終わって、休憩に外に出てみると、ちょうど夕暮れなのである。

今の時期の夕暮れが美しいのではなくて、自分の就業時間が17:30で、ちょうど今の時期、その頃に日が暮れるのだ。

僕は夕暮れを見ながら、八王子の道をぶらぶら歩いた。

八王子は山の中を切り開いて作られた町らしく、土地の高低がある。

会社の近くの国道沿いを歩いていると、切り立った崖の下に住宅街が延びている。

そこから見る夕暮れはとても美しい。

僕はぼんやりと夕暮れを見ながら、坂道を歩いていく。

こんな毎日が、あとどのぐらい続くのだろうか。


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抽象論、設計、議論について


一面的な考え方を理論と呼ぶ。

それは正しいかもしれないが、それですべてが説明できるわけではない。

理論は常に一面しか言い当てることが出来ない。

一般に、理論は、それが正しいかどうかよりも、それがどの範囲内で適用できるのかを考えたほうがよい。


抽象的な言葉は、多くの人を励まし、多くの人を傷付ける。

見ず知らずの人が、私の言葉に頷く。

見ず知らずの人が、私の言葉に傷付く。


異口同音は普遍的な外観の証。


心の矢は、身に覚えのある人の心だけに突き刺さる。


抽象的な言葉は、身に覚えのある人の心に突き刺さる。

意識する人は、それを避けることが出来ない。


当て付け、冷やかし、皮肉は、成り損ないの抽象論である。


否定論は常に未熟である。

それは肯定論に依存しなければ成り立たない。


抽象的なものに出会うためには、具体的な人間関係を、ある程度は遠ざけなければならない。


見下ろす魂、見上げる魂。

人生には、「トップダウン設計」的なViewと、「ボトムアップ設計」的なViewがある。


ある人の現実を、他人の視点でモデリングすることは事実上不可能である。

情報が少なすぎるのだ。


自分に都合のよい考えは、考えれば考えるほど具体化してくるが、それで実現に近づいているわけではない。

妖怪の想像図がどんなにリアルに描かれても、そんな妖怪が実在するわけではないのと同じである。


ある人の唱える抽象論は、すべての人に与えられるが、例外的に、その人の顔見知りの人たちには与えられない。

「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」(マタイ 13-57)

例えば、容姿の美しくない男性が、同じように容姿の美しくない女性と付き合っているとしよう。

その彼が自分の恋愛体験を元に美しい恋愛小説を書いたとしよう。

それを読んだ世の人々は彼に賞賛を贈るだろう。

しかし、彼やその恋人の顔見知りの人たちにとって、それは笑える話でしかないのかもしれない。


基本は過去に、応用は未来に。

基本を理解するということは、過去を遡るということ。

未来を志向するということは、応用で済ませるということ。

未来志向は応用志向であって、案外新規性に乏しいものである。



議論について


否定は、拒絶であり、棚上げである。


他人を黙らせる言葉が自分を黙らせるとは限らない。

皮肉や当てこすりというのは、自分とは相容れない生き方をしている他人が、自分より上手くやっているときに言うものである。

だから、そういった物の言い方をするのは、自分の人生がうまくいっていないことを告白することにほかならない。

皮肉屋という名の材木業者

他人を見下すというのは、自分が偉い人間であると錯覚させるための、一番コストのかからない方法である。

自分が偉い人間になるためには、自分のレベルを上げるしかないが、それはなかなか大変なことである。

代わりに考え付くのが、自分以外の人間を全員自分よりも一段下に置く方法である。

これは、自分と対立する他人を否定することで、自分が肯定されたような気になる、というのと同じ錯覚である。

称えるのも貶すのも、追随の一種であり、難しいことではない。

すべての意見は参考意見である。

あなたは他人の意見に依存することは出来るが、

他人の意見はあなたの責任を肩代わりしてくれない。

(ここで言う意見は、宗教でも、主義でも、哲学でも同じことである。)

「自らを灯明とせよ。」(仏陀)