精神的な修養が足りない人の共通点は、態度が変わりやすいことである。


ある人が捻(ひね)くれて見えるのは、その人の捻くれ方が足りないからである。


人間は、本当に捻くれ切ってしまうと、ネジのように、かえって真っ直ぐに見えるものだ。

例えば、私がそうである。


ある人が、まっすぐに見えないのなら、その人は、捻くれているというよりは、いまだに捻くれ方が足りないのだ。

自分の捻くれぶりをアピールして認めてもらいたがるのは、いまだ無垢なお人好しの青年である。

そういう青年は、捻くれ切るには、いまだ相応の老獪さが足りないのだ。


そうかと思えば、年をとっても、いまだに青年期の中途半端な捻くれぶりが治らない人もいる。

いわゆる気難しい人である。

その人は、人生が停滞したまま過ぎてしまったのかもしれない。


上と同じことは、ほかのことにも言える。

例えば、「自意識過剰な人」とは、「人並みはずれた自意識を持っているすごい人」というよりは、「いまだに自意識をコントロール出来ない未熟者」という方が正解である。

だから、自意識過剰も、一種の青春病である。

逆に、この段階を抜けた人、すなわち自意識過剰を極めた人は、もはや、他人から非難の意味をこめて、自意識過剰だと指摘されることはない。

自意識は極めると、自然になる。

「完全なる技術は再び自然となる」(カント)

意識が自然になるということは、それが消滅するということである。


「許せない」がその人の限界である。

すぐにキレたり、ムカついたりする人を、そうさせないように配慮するのは、心労の無駄である。


ある人の心の強さは、その人の心の狭さに比例している。

人の心は、それを狭めることによって、一時的に強めることが出来る。

しかし、その状態を長く続けていると、その人の心の強さと狭さはその状態で固定されてしまう。

これが、「心の近眼」が発生する原因である。


一般に個人主義者には強気な人が多いが、これも上の現象の常習化が原因である。

例えば、抗議するとき、心が狭くならない人はいない。

しかし、それはたいていの人の場合、一時的な現象である。

しかし、世の中にはその態度が常態化している人もいる。

心を狭くすることによって、自分の心が強められること、そうすれば自分は強く生きていけるということを、経験によって身に着けてしまった人である。

なお、このやり方を意識的に取り入れることで自分の心を強くするのは、いわば「心のドーピング」であり、止めた方がよい。

それはあなたを蝕むだろう。


禁忌は精神的無菌状態である。

無菌状態にいては、精神的な免疫は生育しない。

「認めない」、「否定する」、は威勢のよいアレルギー反応である。

彼らが望んでいるのは禁忌(精神的無菌状態)の延長である。


未熟な人間の特徴 その1

「異性への要求が高い。」

ある人物がどの程度のものか知りたかったら、その人に異性への好みを聞いてみればよい。

その人の、異性に対する要求の高さに応じて、その人自身の精神は幼い。


「自慢する人」は「自慢し慣れていない人」だから、まあ、そう責めないことである。

例えば、うちの母がそうである。


例えば、あなたがニュースなどを見ては、ブログなどで告発している人たちの非のほとんどは、あなたが内心で許してあげれば、(あなたにとっては)済む問題のような気がする。


ある人が私に忠告してくれる。

「あなたはステップ1ね。私のようにステップ2に進まなきゃ!」

しかし、私はステップ3であって、ステップ1やステップ2にはもう興味はないのである。

たしかに、ステップ1とステップ3は間違えそうなぐらいよく似ているのではあるが、全然別の段階である。

そのことを相手の人に何と言って説明したらよいのだろうか。

(上のような話をすれば、「いや、私はステップ4なのよ」と取って返すのが、目に見えているではないか。)


電車での、若い人たちの会話を聞いていると、ひとつの特徴に気がつく。

それは「受け売りだけで会話が成り立っている」ということである。


未熟な人の特徴:

善悪の基準が個人的な損得に基づいている。


「好きな言葉は?」と聞かれて、副詞的な言葉をあげる人は、哲学性のない人である。

哲学性のない人は、好きな言葉を聞かれると、副詞的な言葉をあげる。

一生懸命、がむしゃら、絶対、がんばって・・・。

好きな言葉として、「一生懸命」をあげる人が、己の財産獲得や出世のために「一生懸命」になっているのを見ると、がっかりする。

「一生懸命」それ自体に善悪はないということに気づこう。


信用できない人は2種類ある。

1.履行する気のない人。

2.履行する能力のない人。

後者はどちらかと言えば、信頼できない人であるが。