大切なのは、他人を負かすことではなくて、自分が負けないことである。
自分が負けないために、他人を負かさなければならないのは、対戦型の人間関係の場合のみである。


あなたが他人を蚊帳の外に置くとき、その人もあなたを蚊帳の外に置くだろう。


親しい人とは建前で付き合い、面識のない人とは本音で付き合う。


見切るのと見切りをつけるのは違う。

僕は君を見切ったが、見切りをつけてはいない。

君には更なる努力を希望する。


蛇の道は蛇。

蛇の道に入って、蛇以外の友を得ることは出来るだろうか。


男女の仲は、親子の仲ほど、長くは続かない。


もてなしの心には気がつかないほうがよい。


「空気を読めない奴」についての考察。

世の中には、空気を読むのが得意な人と苦手な人がいる。

空気を読むのが得意な人とは、厳密に言うならば、「この場の空気」を読むのが得意な人である。

そして、この場の空気を読むのが得意な人は、この場以外の場所の空気を読むのが下手な人でもある。

空気を読むのが得意な人とは、厳密に言うならば、「今の時代の空気」を読むのが得意な人である。

そして、今の時代の空気を読むのが得意な人は、今以外の時代の空気を読むのが下手な人でもある。

この場に感覚を研ぎ澄ませると、この場以外の場所に感覚が行き届かなくなる。

今に感覚を研ぎ澄ませると、今以外の時代に感覚が行き届かなくなる。

感覚的鈍感はお互い様である。



「空気を読むのが上手い人」と「噂話をするのが好きな人」は同一人物である。

「空気を読む」のと「空気を作る」のは同じことである。

空気とは、雰囲気に噂話を溶かし込んだものである。

「空気が読める人」が「空気が読めない人」を嫌うのは、「自分が作り出した、自分に都合のよい空気」を、その人だけが素直に吸ってくれないからである。


他人の意見は所詮他人の意見だが、
異口同音ならば、メタな意見として聞いておいたほうが良い。


私が個人的に気が合う人たちには、私以外の人たちから嫌われている人が多い。


ともに泣くのは幸せだね。

仲間がいるのだから。


不利な立場にいる人ほど、他人の真心が見えてしまう。

先日、ある人がこう言ったそうだ。

「友人は選べるが、隣人は選べない。」


原始社会において、隣人とは地理的に近くに住んでいる人を指した。

今日の社会においては、隣人とはお互いの意思で求め合ったわけではない状況において付き合っていく人を指す。

お互いの意思で求め合ったわけではない状況とは、例えば、学校や会社を指す。

そう考えてみると、学校の同級生も、会社の同僚も、友人と言うよりは隣人である。

少なくとも、隣人は必ずしも志を同じくしないから、同志とは限らない。


娯楽の有用性は、同志ではない隣人とうまく付き合っていく環境を与えることにある。

娯楽の欠点は、そこに何の中身もないことである。

娯楽は隣人との付き合いを円滑に進めるが、それだけで友人が得られるわけではない。


享楽的な人ほど、隣人との付き合いがうまい。

一見友人が多いように見える人も、よく見れば隣人しかいないと言うことはあり得る。


友人とは理想を共有し、隣人とは現実を共有する。

友人とは喜びを共有し、隣人とは我慢を共有する。


試練は享楽で得た遊び仲間との友情をふるいにかける。


志を持てば、同志が得られ、志を捨てれば、隣人が得られる。


遊び仲間との付き合いは、芋づる式に増えて、芋づる式に途絶える。


敬語を使うと、敬語を使われる。


「心を傷つける」という言い方がある。

例えば、AさんがBさんに対して、「あなたは私を傷つけた」と言ったとしよう。

しかし、Bさんは身に覚えがないということはあり得る。

ある人が、「あなたは私の心に傷をつけました」というとき、それは次の2種類に分類できる。

1.「あなたは私の心に新しい傷をつけました。」

2.「あなたは私の心の古傷に触れました。」

後者の場合、厳密には、「あなた」は「私」の心に傷をつけてはいない。

しかし、「私」は「あなた」が心を傷つけたと考えている。

ここに両者の認識の違いが生じる。


客対客の人間関係は成り立たない。

個人的な人間関係において、相手が客でないように、あなたも客ではない。

あなたが客の立場を譲らなければ、あなたの人付き合いは上手くいかないだろう。