「正論」から「意味」を汲み取るのは簡単だが、正論から「価値」を汲み取るのは難しい。

人間は、相手の意図を、音声や映像の形で、目や耳から受け取る。

音声や映像は頭に送られ、文字情報に変換される。

変換された文字情報から、意味が汲み取られ、心に回される。

心は、回された意味から、さらに価値を取り出す。

ここで、文字情報が正論の場合、この最後の処理が機能しないのだ。

正論を聞かされた人は、正論から意味を取り出すと、「それはそうですね」と言って話を終えてしまう。

彼はその正論から価値が取り出せなかったのだ。

なお、優れた詩は意味をすべて取り出さなくても、価値を取り出すことが出来る。

だから、優れた詩は、意味がよく分からなくても、感動することがある。


価値のある人は、価値論を道徳論より優先する。

だから、価値のある人は、道徳についてまったくの音痴である。


私は、きれいごとを聞くのは好きではないが、その中から言い手も気が付いていない本来の価値を見出すのは好きである。

言い手が、自分の発言の中に含まれる価値に気が付いていないのは、彼が受け売りの言葉を言っているからである。


価値あるものを得るよりも、価値観を得ることの方が大切である。

人間には誰しも食欲と性欲に基づいた価値観は最初から備わっているが、例えば、高尚な芸術を理解するための価値観は自分で養わなければならない。


問題にもピンからキリまである。

ピンの問題はキリの問題より価値がある。

問題はそれ自体に価値がある。

フェルマーの最終定理などがそうである。