真理について


苦しみの中から真理が導き出される。
導き出された真理だけが他人によって摘み取られ、世間に受け売りされる。
世の中には真理のみを語る人がいかに多いことか。


真理を求める人は、まず苦しみを求める。
苦しみに包まれた、手垢の付いていない真理を手に入れる。
最初から結果としての「真理」を求める人の目的は、真理によって得られるところの世俗的な利益である。


真の真理は未知の真理であって、
既知の真理は真の真理ではない。
それはただの知識である。


真理は言葉にして表すことが出来ない。
それは、真理をさまざまな自然言語で言い表し、それらを並べてみればよく分かる。
一つとして同じニュアンスはないだろう。
真理は日本語で言い表すことが出来ない。
真理は中国語で言い表すことが出来ない。
真理は英語で言い表すことが出来ない。
本当の真理に触れたければ、自分で実感するしかない。
「火傷をしたから、皮膚がひりひりする」という言葉は、
実際に火傷をしたことがない人には理解することが出来ない。



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善悪について


人間は反射的に悪いことをしてしまうことがある。

その場合の客観的な評価は以下の2種類に分けられる。

1.反射によって、そうなってしまった場合。

2.条件反射によって、そうなってしまった場合。

前者は生まれつきのものであって、誰にでも起こりうることである。

例えば、つい怒ってしまった、つい笑ってしまったなどの場合がそうである。

それに対して、後者は、本人の今日までの生き方の反復によるものであって、これまでのその人の生き方の延長線上にあるものである。

例えば、つい嘘をついてしまった、つい人を馬鹿にしてしまったなどの場合がある。

ある人が、ある場面において、つい嘘をついてしまったのは、その人が常日頃から嘘をついているからである。

また、ある人が、他のある人に対してつい馬鹿にした態度をとってしまったのは、その人が常日頃から他人を馬鹿にしているからである。


「割り込もうとする心理」と、「割り込ませまいとする心理」は、表裏一体である。

「割り込もうとする心理」は邪悪だが、「割り込ませまいとする心理」も、実は邪悪である。

なお、「割り込まれまいとする心理」は、「割り込ませまいとする心理」とは別物であり、それは邪悪な心理ではない。


善い人と悪い人がいるのではなくて、未熟な人と老獪な人がいるのだろう。

未熟な人は、善い人にも見えるし、悪い人にも見える。

老獪な人は、善い人にも見えるし、悪い人にも見える。


善いか悪いかと、かわいそうだというのは別の話である。

例えば、ある極悪な犯罪者が死刑判決を受ける。

世間ではよいか悪いかで議論が起こるが、その死刑囚の親は、子供のことをかわいそうだと思う。

このかわいそうだという気持ちには、善悪の判断は含まれない。


化粧には善悪はない。

醜い容姿を補うために、化粧をするのは美醜の問題である。

心の化粧には善悪がある。

醜い心を補うために、心の化粧をするのは善悪の問題である。


主観的な善悪と客観的な善悪。

主観的な善悪とは好みのことである。


人の心は善悪よりも強弱が問題だ。


有価値な人の言う善悪とは、個人的な損得のことである。


動揺は消極的な嘘である。

動揺するのは消極的な嘘をついているからである。


まったくの善だけでは生きていけないように、まったくの悪だけでも生きていけない。

きれいごとだけでは生きていけないように、汚いことだけでも生きていけない。


露悪は偽悪であり、偽悪は結局のところ偽善である。

そして、偽善はお人好しである。

例えば、小説家や漫画家などが、その話の筋書きなどにおいて、登場人物を通じて自分がいかに悪どい人間であるかをアピールするのは、彼がお人好しであることをアピールするものに他ならない。



加害者はいないのに被害者はいる。

悪い人はいないのに悲しんでいる人はいる。

加害者の言う天災は、被害者の言う人災である。


「悪」を糾弾するのが「正義」とは限らない。

それはただの「ストレス解消」かもしれない。

捕まった悪人をいくら叩いても、社会正義には貢献しない。

「面識のない極悪人」は、「最良の人間サンドバッグ」である。

(「個人」では物足りないという人には、「異民族」という大口の人間サンドバッグが用意されている。)

「悪」の反対は「下衆」である。


偽悪という名の、分厚い偽善の皮。

偽悪は偽善が肥大したものである。